無理心中 日本の夏

監督脚本:大島渚 1967年創造社 99分

佐藤慶、桜井啓子(新人)、田村正和

脚本:田村孟, 佐々木守 撮影:吉岡康弘 美術:戸田重昌

作品が制作された時代背景を理解していないと、映画が何に対する闘争であるのか、さっぱり見えないだろうが、それでもぶつ切りに並べられた男たち(+たった独りの女)の煮えたぎったクローズアップがごつごつと脳裏に焼き付く秀作。夜明け前の車一台として見えない首都高、裸あるいはふんどし姿の男が銃を片手に歩き回る廃屋、ど真ん中に鉄塔(東京タワーではないが、とすると何だろう?)だけが聳え立つ荒野での銃撃戦、そしてラストの警官隊に包囲された古墳(?)での憤死と、極端化されたシネスコ画面こそが闘争的撮影隊の血の気の多さを代弁しているようでその勇ましさはある種の強度を成し遂げていると言えなくもないが、2010年に見直してみると、画面の荒唐無稽さが同時代のアントニオーニと涼しげに笑みを交わし合っているように見え、イデオロギー主導の映画というのは同時代的感性にしか響かないのではと思えてしまう。

と言っても、ダラスでケネディを暗殺したという男(1963年のケネディ暗殺さらに、1966年テキサスタワー乱射事件を念頭に置いてのことだろう。)が、銃を持って日本の首都に立てこもり、彼とふんどし男子テロ隊とが言葉が通じなくとも、意志を通わせるというくだりは痛快だし、桜井啓子扮するネジ子(新宿のフーテン族だという)のふてぶてしい巨乳の存在感は拒みがたくいい。大島作品にエロスが浮上するのは「愛のコリーダ」よりも、むしろ桜井のようなケバケバしさにおいてであり、演出家としてもテレがなくやりやすいのでは、と邪推。最後の銃撃戦で包囲する警官側をほとんど見せずに、空虚に防戦している男たちだけを見せる視座の限定は、「突入せよ!あさま山荘事件」(2002)を先取りしているどころか、殺意を結集して立てこもったはいいが殺すべき対象に照準を合わすことが出来ず、死に場所を求めて集団でちりぢりに果ててゆく徒労感が、実際の浅間山荘事件(1972年)を予見しているという点が恐ろしい。

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