夢の中でもマスターショットは必要か

海の日に夏休み映画を!つーことで、有楽町ピカデリーにて大作を見た。

一頃前なら、トム・クルーズが特殊人間を使って(Minority Report)、もっと遡れば James Stuart がKim Novakを使って (Vertigo)やった記憶や予知夢を辿ってゆく旅。その系譜にChristopher Nolan の新作も連なるのだが、夢が多層化し、夢の中の夢の中の夢・・・と深みに陥ってゆけばゆくほど、時間が早く経過する(現実では10秒足らずが、第三下層の夢では10日となる、等)というもっともらしいトリックと共に、とてつもなく複雑化されているのだが、それが不要であるというよりは、イッチャエ~というようなアメリカ映画の性格そのものの解放された混乱ぶりが妙に心地よく、それでいて、最後スッと夢から覚める(どのようにかは、言わない方が良いだろう!)カタルシスは見事といえるので、この作品は悪くないといいたい。
しかし、ディカプリオは画面を背負うことの出来る俳優なのかどうか、というのはやっぱり疑問だし、第三下層(=カナダ)の雪山の要塞シーンはおおざっぱな演出で、全く見どころに欠けていたし、というか、このChris Nolan という作家は場所はいかにもどうでも良い、という撮り方しかしない男だろう。一応場所を示すショットはあるものの、いかにもワイドで「はい、ここですよ」と示すだけのものにすぎない。マスターショットがマスターショットとしての魅力を持ち得ていない。DiCaprio の夢であろうと、エリート大学生のEllen Page の夢であろうと、作品中、同じ夢の場所を再訪することがないのは、その場所場所を一過性のものとしてしかショットで捉えていないからであり、映画において、同じ場所を訪れ、印象的なショットの甘美さにより前回の来訪の時の記憶を呼び起こすヒッチコック=シャブロル的な拘りがあれば、映画としてもっと深みを獲得していたろうと思う。
Nolanの前作Dark Nightがそれでも素晴らしかったのは、都市全体が闇に覆われており、場所自体が匿名性のもと、「どこでもいい」 形で交換可能となっていたからだと思う。そんな場所の抽象性は、あちこちに突如現れるバットマンに合っていたと言うことか。

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