【2013~4年 個人と社会の関わり合いについて回顧 その2】

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(前日のつづき)

ニューヨーク、ウェスト・ヴィレッッジにあるFilm Forumという映画館で、「フタバから遠く離れて(英題NUCLEAR NATION)」が上映された。この小屋は、ヒッチコックやフィルム・ノワール、スクリューボールコメディの特集など映画の伝道をいつもニュープリントで安価に上映してくれる理想的なシネマテークで、僕が学生の頃足繁く通った場所だった。そこで自作が初めて上映されるのは感慨深いものがあったのだが、上映後のQ&Aは予想通り福島の現状について本質的な議論が飛び交う場となり、耳の痛い批判も多くあがった。

まずは、双葉町をはじめ、原発事故の避難民がなぜこうも放置され続けるのか。
国際的な被ばく許容量1mSvに対し、なぜ日本政府は20mSvで良しとするのか。それは国民の命よりも賠償の最小化を優先しているのではないか、等々ごもっともな批判を受けた。さらには、再稼働を進める現政権自民党は、東電救済、エネルギー権益体制の安定維持を優先させているからだと僕が説明すると、「現政権を国民の大半がいまだ支持するのはおそらく経済が上手くいっているからで、福島のことは日本人の大半は無関心なのだろう。アメリカでも原発の危険性は度々議論になるが、時間がたてば忘却されるだけ。」「日本が電力自由化していないと聞いて驚いた。『べき論』で脱原発は不可能。311以前のドイツのように一つの政権で奇跡的に脱原発を打ち出したとしても、政権交代でも起こればあっけなく元に戻されるからだ。電力を自由化し、原発と電力会社を市場経済に晒すべき。そうすれば元々、単価の高い原子力は消えてゆくはず」など鋭利な指摘も多かった。

おおむね日本の変わらない現状にフラストレーションと疑問を掲げる観客が多かった。首相がしょっちゅう変わり、政権交代も起きた311以後の日本であるが、実はエネルギー産業は旧態依然として変わらず、再稼働に猛進している不思議さ。「フタバから遠く離れて」の中にも、全原協(全国原子力発電所所在地市町村協議会、2011年度)で全国の首長、各電力会社の代表、関連省庁の幹部が出席している前で、冒頭挨拶だけで海江田経産大臣、細野原子力担当相が退席する場面があるが、「WHY ??」という声が多く聞かれた。当事者たちが本質的な議論を避け続ける、この不思議さ。ニッポンという国は、理屈では納得できない不思議さに包まれている、という印象だ。

実際、麻生太郎副総理のナチス発言でみられるように、騒ぎ立てることなく静かに、誰も気づかないうちに法案が通っていたり、憲法が改正されたりするのが理想とする政権側の政治家も少なくない。本質的な議論を回避して、同じ党派の中で内輪の意見調整を行い、外には議論を開かないまま、本会議で強行採決を図る、それが今の安倍政権の姿だ。

誰も知らぬまま見えない形で、問題を隔離し、秘密裏で進めること。
それが今年、特定秘密保護法という形で一つの結実を見た。今後、この秘密裏作戦で、96条改正、9条改正、国防軍設立にまで向かおうとするに違いない。

●対外的に統括を示せない国・ニッポン

外国から見て、「不思議な国ニッポン」は今始まったことではない。

大戦後、ポツダム宣言を受け入れ、東京裁判、サンフランシスコ講話条約を受け入れたものの、未だに侵略戦争と認めない政治家が後を絶たず、それを許容してしまう国家がある。ドイツは、国際社会に公式な謝罪・賠償を行っているのに対し、日本はどちらも未だない。正確に言えば、村山談話が侵略戦争を認め、1965年日韓基本条約により賠償は支払われたとの解釈が存在するが、「正式な賠償、正式な謝罪」を認めない日本政府の在り方がいつも問題になっている。例えば日韓基本条約で、総額8億ドル支払われたと言われるが、「戦争賠償金」を求めた韓国の要求を拒否し、あくまで経済協力金として支払い、さらに「財産さらに請求権に関する問題の解決」として、侵略・従軍慰安婦・強制労働者に関する請求をいっさいがっさい「解決」としてしまった。しかし、
実際にはその「経済協力金」が韓国側で元慰安婦個人に渡っていないなど問題があり、未だに火種はくすぶり続けている。

そして、慰安婦・強制労働者は韓国に限らず、中国、東南アジア、オーストラリアにまで広がっており、それについての謝罪は、村山談話のみでは到底国際社会の理解を得るには至っておらず、はっきりした形=賠償などのアクションが求められている。

明確に国際社会が分かる形でプレゼンされた謝罪・賠償がなされないまま、首相が靖国に参拝する国・JAPAN。それは、こっぴどく叱られて、「ごめんなさい」と反省を口にはするものの、本音は全く反省していない子供のように、外国には映るのだと思う。安倍首相は靖国参拝のあと、こう語った。

「靖国参拝については、戦犯を崇拝するものだと批判する人がいますが、私が安倍政権の発足した今日この日に参拝したのは、御英霊に、政権一年の歩みと、二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことの無い時代を創るとの決意を、お伝えするためです。」(全文はhttp://sankei.jp.msn.com/politics/news/131226/plc13122612220016-n1.htm
を参照)

日本の政治家に限らず、古今東西、全体主義・ファシズムを煽動する政治家に共通してみられるのが、このemotional (感情的な)とrational (論理的な)要点を一緒くたにする語り口。「二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことの無い時代を創る」という思い=感情論と、「戦犯を崇拝する」ことの非(日本が東京裁判を受け入れ、国際社会で認可されたA級戦犯=悪という論理を侵すこと)をないまぜにしても、何も語ったことにならない。なぜA級戦犯を合祀する宗教施設を参拝するのか、という疑問にロジカルに答えていないからだ。その答えは二択しかない。A級戦犯=悪を受け入れるのか、受け入れないのか、である。

安倍首相は、そのどちらでもない答えがある、とどうやら思っているようである。あまり考えたくないが、安倍首相の意を汲んでみると「戦犯とされてしまったが、英霊のみなさんは国のためによくやってくれた」と考えているのではなかろうか。

これはあまりにも幼すぎる考え方だ。
ロジカルに考えれば、A級戦犯を肯定している、過去を反省していない、と取られるのが普通である。であるから、参拝したいのであれば、(戦犯の祭られていない)千鳥ヶ淵の戦没者墓苑を選ぶのが、当然の感覚だと思う。(ケリー国務長官とヘーゲル国防長官が参拝したのは、安倍政権へのそんなメッセージだと思うのだが。)

靖国参拝については、このA級戦犯の問題とさらに政教分離に反する問題があるが、ここでは追求しない。(多くの論客が既にされていますので^^)それよりも、<戦後の統括が国際的な場でなされていない> ことをここで強調したいのだ。要するに、対外的なプレゼン・共通理解構築は大の苦手で、見えないように秘密裏で事を進めるのが大好きの国、そんな不思議な印象が、日本に定着しつつある。

●責任者が見えないこと

戦後の責任問題が曖昧なままであるように、今継続している福島原発事故についても、ぼんやりとした無責任状態が続いている。

昨年9月、福島原発告訴団が刑事告訴した勝俣恒久東電元会長、班目春樹原子力安全委員会元委員長、山下俊一福島県放射線健康リスク管理アドバイザーなど33名は不起訴処分となった。誰か特定の人物に、「全ての責任がある」と訴追することは出来ないからだという。

また昨年4月、福島県郡山市の小中学生14人が疎開を求めたふくしま集団疎開裁判は、仙台高裁が原告の申し立てを却下した。理由は、(被ばくによる)悪影響がいますぐに出るという確証がない、自主避難の道はあるのだからわざわざ郡山市が避難させる必要性がない、とのこと。郡山市の責任を認めない判決だった。

二つの判決に共通するのは、責任の所在をはっきりピンポイント化できない状況だ。

我々は、この見えない責任者に、どのように対峙してゆけばよいのだろうか。

(明日につづく)

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