Ophlus & Guitry

222.jpg

「たそがれの女心」  “Madame de….”  Max Ophuls 1953

Ophuls作品について、誰もがその流麗なキャメラワークを語る。
そこには、カメラを動かすのがまず第一にあり、人物が早足で歩き、人がせわしなくリアクションを見せるのがデフォルトの世界がある。動き続けるという映画のフォルムがまずあって、場面内容が次に決まってゆくのではないかと思えるほど、Ophulsの芸術的選択は強固なものだ。

それをスタイルと言ってしまうと、矮小化しているように感じる。

人物たちの身のこなし、互いに余裕綽々で騙し合うという“優雅な”サスペンス、流れるような音楽の選択、壁を越え人々の集団を凌駕し、空間を飛ぶように動くキャメラ・・・全体へのmise en sceneが 有機的に連鎖している、まさに映画である。

「キャメラが動き続ける空間」がデフォルトである映画作家は、現代ではトニー・スコット、(サブウェイ123激突) やイーストウッドを思い浮かべてしまうが、これを50年代のアメリカとフランスで成立させてしまったというのが凄すぎる。

キャメラが動くべきか、フィックスで留まり続けるべきかという問題は、映画史的にみてあらたなフェーズに来ている気がする。だからこそ今Ophlusを考え直してみるのは、面白いかと。

なぜこのあまりにも過激な流麗さを追求したのか、とOphuls が生きていたら聞いてみたいものだ。Danielle Darrieux が本当に美しかったからだ、とでも言われるのがオチかもしれぬ。

「トランプ譚 」  サッシャ・ギトリ  (1936, 仏、81 min )

ギトリが自伝的に演じ、ギャンブルのいかさま師を演じる。
自信の小説「詐欺師の物語」を脚色、監督、主演した2作目とのこと。

最初、夕飯のChampignon(キノコ)を家族12人のうち、自分だけがビー玉を盗んだバツで食べれず、残り11人が食べて一挙に死んでしまうギャグには笑ったが、そのような視覚的ギャグが散りばめられている。

映画がトーキーになったとき、時代の最先端の表現、つまり語り言葉を肉体化したのが、ギトリだった。故にフランス語を使ったもっともフランス映画らしい作家ともいえるかもしれない。その正当な後継者はトリュフォーになるだろうか。ナレーションによる過去の語りは、言語的壮麗さがあってこそ成立するのだろう。

映画はいまここにある脅威を囁く

506448F2-78C6-4ED1-8864-AEEF41DEA052.jpg

「沖縄スパイ戦史」
監督:三上智恵 & 大矢英代

戦争になれば、国は民を守ってくれない。
それどころか、邪魔物扱いされ、情報漏洩源(=スパイ)として殺されてしまう。

この受け入れがたい真実を、歴史的事実に踏まえ立証するだけでなく、実はその背景にある「下々の民は犠牲になるしかない」「民衆は守るものでなく、利用するべきもの」という発想が、今日の自衛隊法にも脈々と受け継がれていると映画がはっきりと示すとき、見ている我々はただただ呆然とし、震撼するしかない。

戦争を過去のものとして安穏と見ていた自分が、実はその渦中にいることに気づき椅子から飛び上がる。これが映画において、戦争を描く意義だろう。

国家の目的の第一義は国民を守ること。これが情けないほど、どっこにも根付いていないのが日本なのだ。

国体保持のために、民が犠牲になるのは仕方ない、我慢するしかないというメンタリティは、沖縄の基地や、福島などの原発立地市町村という犠牲のシステムを生んだ。太平洋戦争で本土決戦の前に沖縄を防波堤にした思想は現在も継承されており、それどころかアメリカから見れば、対中国防衛圏の防波堤にもなっているという二重の犠牲の構図。

戦争に巻きこまれた当事者たちへの視線が素晴らしい。
戦禍に巻き込まれたら、被害者も加害者も、戦後とてつもない精神的苦痛を背負わざるを得ない。

沖縄戦で、ほとんど子供にしか見えない10代前半の少年兵を最前線に連れ込み、多数を殺した将校は、戦後悔恨に苛まれた。彼に出来ることはせいぜい、ソメイヨシノの苗木を沖縄に送ることだった。しかし、本土から送りつける餞別など、沖縄には必要ない。カンヒザクラのように沖縄の郷土に根ざし、共に生きてくれる隣人こそが大切なのだと映画は問いかける。

立派に散れという本土のソメイヨシノより、這いつくばってでも生きろと叫ぶ沖縄のカンヒザクラ。犠牲を強いる国体よりも、人生を選びとる民衆の意志こそ、最後に残るということを指し示しているかのようだ。

悲しいかな、日本において、国家は「民を守る」のではなく、「民を使う」ものという思想はずっと不変。

だから、国はけしからん!と国のせいにしていては何も変わらないことをこの映画は突きつけている。被害者意識ではなく、本当の意味で国民が権利意識に目覚めることが、国を変えてゆく、民主主義を育んでゆく、ということまで、本作は照射している気がする。 

それが泥臭く咲き続けるカンヒザクラに、託された思いであろう。

海を駆ける

111.png

深田晃司 2018
避けようにも避けられない凄烈なスマトラの日差しを浴びつつ、地元のインドネシア人と、NPOで働くと思われる日本人と学生が、一瞬の偶然から運命 を共にしてゆく様が、驚くべき自然さをもって記録されている一本。ロメールの筆遣いを学んできた作家が、何も“演出していない”ようで、多くの偶然を“演 出してしまう”という高度なマジック。
 ファンタジーと宣伝で銘打たれているのは、そんな“演出されていない”かにみえる自然さの世界に、ふと海から降り立った謎の男(ディーン・フジオカ)が 引き起こす幾つかの“奇跡”からだと思われるが、彼がスピルバーグ的な世界をマジカルに豹変させてしまう地球外生物であるという印象が、実は誤った解釈で はないかと思い直すのは、画面に旧日本軍のトーチカが現れるときである。
ネタをばらすつもりはないが、「海を駈ける」は「逆走」だったとだけ言っておきたい。波の寄せる方向とは、正反対のベクトルに向かうこと。それは厭 が応にも時間の遡行を思わせ、フジオカ演じるあの異星人が、実はこの島を襲った大震災と津波の犠牲者、そしてトーチカの付近で命を落とした日本と南印系兵 士たちの場所から来たのではないか、と解釈したいという思いにかられる。
クリス、イルマ、サチコ、タカシという若い役者がすべて素晴らしい。フェリー上のシーンなどこちらがむず痒くなってしまう場面もあるが、性と不条理がある自然さをもって描かれてしまう手つきは、どうにも魅力的だ。
長く続く時間の蓄積と現在との接点をまるで風を切り、駈けぬけるような軽やかさと共存させてしまう、それはとても野心的だと言わねばなるまい。