Archive for the ‘311’ Category

<自分の加害について考える日>

March 11, 2017

今日で震災から6年。

今月末には浪江町、飯館村、来月には富岡町の避難指示が解除されます。

福島原発事故は収束したのか。

そんなことありません。
それぞれの町は帰還政策を押し進めるしかないよう、追い込まれているだけ。生まれるのは、帰る人と帰らない人の分断。
高齢者ばかりの町と、離れてゆく若い世代の乖離。

なぜなら線量はまだあるから。
福島では不安を払拭するといいますが、不安=精神的苦痛ではなく、実害です。

線量をなかったことにする、臭いものにフタをする、見なかったことにする、という政府の判断が、町を粉砕している。

そして、大事なのは、その福島からの電気を使い続けてきたのは、僕たち関東の人間であること。僕らも加害の一旦を担ってきた。遠く離れた寒村に臭いものを押し付ける「犠牲のシステム」に加担し、涼しい顔で毎日を過ごしてきたのです。

そんな僕たちにできることはたかが知れている。
しかし、最低限できること・・・この日311は、自分の加害について改めて思いを巡らせたい。

かつて拙作「フタバから遠く離れて」を撮りつつ書いた文章、今も考えは変わらないので、自戒も込めてここで掲載します。

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原発事故は遠い昔の出来事だったかのように、風化が進んでいる。

その中で原発避難民を映した映像は、メディアのここかしこに散見されるが、それはみな「被害者」「かわいそうな人たち」というレッテルを張った描写である。

それを見て「ああ、かわいそうだ」と思うもの

「そんな話題、もう見たくもない」と思うもの

こうした認知の在り方そのものが僕はおかしいと思う。   

その認知全体をひっくり返し、見直したいと思う。

なぜか。

福島第一原発の電力はほぼ100%関東圏に送られて来た。
僕たち東京の人間、都市部の人間が使って来た電気である。

そして、60年代〜日本の高度成長の中、「原子力 未来の明るいエネルギー」(双葉町に架かっている標語アーチ)として原子力のポジティブなイメージを支え、原子力にGOサインを出してきたのは、僕たち日本人全員、日本社会そのものだからである。

元は、原爆と同じ核の毒であり、悪魔に魂を売ったゲーテのファウストのように、その大きなしっぺ返しを受けながら、それが自分達に起因している
ことをどうしても認めたくない。

そんなしっぺ返しの強烈な<痛み>に対し、僕たちは距離を置いて直視を避けている。他人のせいにする方が楽だから、国と東電を責める。

遠く離れることで、それを直接には感じなくなることで、
うやむやに過ぎ去ってゆくものがこの世の中に、たくさんあるということ。

原発避難民は「かわいそう」なだけじゃない。

僕たちもその加害の一端を担っているのだ。

正義の欠如に僕たちも加担しているという不都合な真実。

今の国の態度は、金と権力と歪んだ理屈でムリヤリで黙らせようという前近代的なやり方。(それは、いまの首相にせよ、県知事にせよ、また世界のあらゆる国で見られる市民の弾圧である)

住民説明会では、環境省が中間貯蔵施設の補償を、東電が賠償の窓口とする、という縦割りが徹底され、すべて事務的な補償<金目>の議論に落とし込まれている。

そもそも誰がこのような犠牲を押し付けるのだろう?という問いは、議論されない。

そうすることで、国は責任追及は免れる、
のではなく、「僕たち」が責任を免れている。

巨大な責任回避装置を私たち自体がサポートしている。

他人の痛みを思いやるだけじゃ足りない
自分の加害について思いを馳せる 

それがぬくぬくと電気を使いつづける、悪魔に魂を売り続ける、私たちが感じるべき、ささやかな倫理であると思う。

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「息の跡」小森はるか

February 19, 2017

映画の画面、ワンショットごとに血を通わせること。
それが巨大震災に映画作家が向き合う唯一の方法であることを、小森はるかは誰に教わることもなく知っていた。荒れ果て、人気(ひとけ)もなくなった荒野が、一人のたね屋のつぶやきで、まるで違った風景に見えてくる。

彼女は、ひとりたね屋の定点観測を続ける。たね屋は、悲しみが深まることを避けるため、母国語でなく英語、中国語、スペイン語でつぶやきを続けてゆく。すると信じ難いことに、言語によらずともはみ出してくる、情感だけがこちらに浄化され伝染してくるのだ。たね屋の魅力を見いだし、キャメラとともに根気強く付き合い続けた彼女の胆力にひたすら感動した。

映画と震災の美しく、正しい接点に触れた気分である。

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「黒ずんだ手でできること」 舩橋淳 2016/3/11

March 11, 2016

この国において、今日この日になると思い出さない人間は殆どいないのではないのか、と思われる5年前の災禍。

メディアでは、記憶が薄れてゆくこと、様々な問題が風化してゆくことを取り上げ、311を忘れてはならない、原発事故はまだ終わっていない、という論調が支配的になるだろう。

それは確かに間違ってはいない。

あの日、津波や原発事故の映像を目撃し、心震わせ涙したことを僕らはきっと忘れないだろう。自分に起きた最も人間的で感情的な反応を、日々の淡々とした日常に埋没することなく、しっかりと胸に刻み付け、そこから学んだことを活かそうとする意思は大切だからだ。

しかし、それだけでは足りないのではないだろうか。

「今もなお」、福島第一原発からは放射能が漏れ続けており、特に海洋への汚染水の流出は未知数である。それを防ぐはずの遮水壁も全くうまく行っていない。

線量が高い帰還困難区域は「今もなお」存在し、福島県からは10万人以上が自宅を追われ、避難生活を「今もなお」続けている。

さらに国際基準よりも20倍も高い被ばく許容量を国が設定したことにより、避難対象にならず被ばくを強いられている人々と、それは受け入れられないとして自主避難した人々の数はさらに多い。

年月を経て、問題はより複雑になった。
福島の被ばくを指摘し、改善を望むことが、逆に復興の妨げになるから「もう騒ぎ立てないでくれ」とする福島県内の空気。それが、復興という名の抑圧を生んでいる。

それは、社会構造的な暴力であり、虐待といえる。

臭いものにはフタをして見ないことにし、それよりもまずは復興を、気持ちの上で寄り添うことが大事、と「見ないこと」に加担するのは、この構造的な虐待に手を貸すことになる。

大切なのは、遠く離れたところから「福島を救え!」と叫ぶことでも、被ばくの事実を取り上げ、「政府がなんとかしろ!」と政権を糾弾することでもない。ベクトルの方向に注意したい。あるべき姿は、各々異なる被災者のジレンマをまず受け止め、そこから自分にできることを考えてゆく姿勢だと思う。

この5年間、周辺を旋回するばかりで本質をついていない「空騒ぎ」が多かった。例えば、「美味しんぼ」の鼻血問題。いま聞くと、とたんに問題が極小化したように感じられないだろうか・・・当時はものすごい騒動だったのに。

僕たちが無視すべきでない本質とは、矮小化されている被ばくの問題である。

福島では、166人が(疑いも含め)小児甲状腺がんと診断された。
通常の250倍以上の発生率。しかもがん患者の子供たちの分布は、線量マップと一致している。なのに、政府は被ばくとがんに影響は認められない、と否定する。

このままいけば、「原発事故が起きても健康被害は起きない」という既成事実が作られてしまう。恐ろしい事態が進行しているのだ。

しかも、それが僕たち、関東圏の人間が使ってきた電気のせいで。

(いろんな場所で繰り返しているが)僕たちは原子力発電を支え、原発事故に加担してしまった当事者である。何も関係ない部外者ではなく、僕たちの手は、黒ずんでいるのだ。その事実を忘れてはいけない。

遠く離れた地方の人々に、知らず知らずのうちに犠牲を強いる原発という構造的な暴力装置にこれ以上、加担しないこと。無意識のうちに一部の人に犠牲を押し付けないよう、「意識力」を高めること。

僕らはもっともっと注意深くありたい。
自分の使う電気、ガス、水、エネルギー、資源がどこから来ているのか?いつでも知っていたい。自分が何を消費しているのか。それは社会構造的に「消費させられている」のかもしれない、と疑う注意深さ。

メディアリテラシーが必要だ。
311以後、権力への監査・チェックを行う新聞社・TV制作者も少なからず存在するが、もう一方で政権や企業の発表をそのまま垂れ流す喧伝装置になっているメディアも多い。

ノーム・チョムスキーが言っていた
「知性とは、疑いのないところに欠けている何か」だと。

僕たちは権力の使う言葉には、いつも疑い深くありたい。

先日の、福島の農業従事者と環境省の代表会議で何度も叫ばれたとおり、「風評被害とは、根も葉もない噂のこと。」しかし、今の福島で起きている放射能汚染と、それによる買い控えは、「根も葉もある実害である。」

だから、「風評被害」という言葉を使うこと自体が、政府の福島抑圧作戦に加担することになるのだ。この言葉は使うべきではない。

柄谷行人がかつて指摘したように、日本政府は、原発推進のためのキャッチフレーズを歴史上4度、変更した。

①「原子力の平和利用(1950~60年代アメリカから導入時期)」
②「資源の乏しい国のための未来のエネルギー(1970年代オイルショック期)」
③「CO2を排出しないクリーンエネルギー(80年代後半〜地球温暖化期)」
④「電気が足りない(311以降〜現在)」

そして、今僕たちはこれらがすべてウソだったことを思い知った。

とくに導入期の「明るい未来のエネルギー」は、原発立地市町村だけでなく、高度経済成長期の日本人がみな乗っかったレトリックだった。(そう、鉄腕アトムを見てほしい)

ときの権力が用いるレトリックを鵜呑みにする文化から、
それに疑いの眼差しを向け、自分たちの言葉で考える文化へ僕らの主体が変わらないと本質的な変革にはならないだろう。

そうやって、自分の言葉で社会のあり方を語る環境を、子供たちから醸成してゆくべきではないか。

「どうやって生きるべきか」を語ることが、「政治的な話だからイヤ」のようなネガティブな空気に絡めとられるのではなく、「当然そうでしょ!Cool!」と受け止めてもらえる環境づくり、みんなの雰囲気づくりに寄与したい。

どうやったらハッピーでかっこいい人生を送ることができるのかが、この「意識力」の高さにつながるようなダイアローグを生んでゆきたい。それってクリエイティブな作業だと思う。

やっぱりイソップ童話「北風と太陽」のように、人間は「〜であるべきだ!〜しろ!」と命令されるより、こっちの方がおもしろいよ、わくわくするよ、といわれる方を好むもの。

「我々は不正義を強いられている!断固反対!」と怒る被害者意識は、限界がある。

エネルギーも、資源も、社会インフラも「消費させられている」という被害者意識は、いつまでも受け身であり、だからその場しのぎの「文句言い」になる。

僕は、この被害者意識こそ逆転すべきだと思う。

どんな資源とエネルギーを使って、どんな生き方をしたいのか?
そこから、どんな社会のあり方、どんな政治の方向性であってほしいのかが見えてくる。子供たちの教育も、高齢者への福祉も、農業への助成も、移民への政策も、自分たちの生き方がどうしたいかの延長として自分たちの社会を空想するところから発想されるべきと思う。

そんなポジティブなダイアローグを生み出してゆきたい。

よく脱原発社会のためには、安い自然エネルギーを整備すればいい。そうすれば市場原理で、消費者は自然エネルギーを選ぶから問題ない、という議論を聞く。しかし、それだけで満足すべきではない。そこに思想がないからだ。

エネルギーを何の考えもなく受け身で消費し続けること自体がおかしい、と311で僕らは身に沁みるほど学んだからだ。

自分が何を消費するのか、という自分主体の「意識力」を持つべきであり、それがなければ、また「文句言い」の被害者意識に堕ちてしまう。

被害者意識を転換し、自分の言葉で、自分の生き方と政治を語る人々の輪を広げてゆければ、と思う。

そんな思いで、6年目の東北に向け黙祷を捧げたい。

舩橋淳

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書評:「原発棄民」 日野行介(毎日新聞出版)

March 4, 2016

長引く原発避難の現状を探るため、仮設住宅、見なし仮設、復興公営住宅、災害公営住宅(←この2つの違いがわかるだろうか?)、役場、県庁などなど徹底した現地取材で炙り出す、現場の不条理が活写されている。

福島原発事故の長期化が明らかになってきた2012年に、単なる仮設住宅ではなく、住居、学校、病院、福祉施設からなる町外コミュニティ拠点(いわゆる「仮の町」)を作るべきではないか、という避難民の人生にとり最も本質的な議論が福島県や総務省で開始されたとき、法的に二重戸籍を作れない、という役所の都合で、廃案になっていったという驚くべき事実を、時系列にそって緻密に調査している。

その過程で明らかになるのは、「復興」がいかに本来あるべき姿からかけ離れた、役所の内的な都合で決定されてゆくのか、という寒々しい姿である。

住宅援助(見なし仮設、復興公営住宅など)についても、状況的には「避難」であるはずなのに、復興公営住宅に入居したり、新居を買う場合の賠償金の増額制度によって、新たな土地への定住に人々を追いやり、そうすることで、「避難の終了=賠償の打ち切り」をできるだけ早く達成するという目標ありきで、国が、県庁が、施策を進めていることが明らかとなる。

自主避難者に対してはもっと酷い。そもそも国際基準1mSv/年の20倍の、20mSv/年で線引きをしている避難基準の矛盾が噴出する。役人は、「帰りたいか、帰りたくないかをそれぞれ決めてもらう。帰還を強制している訳ではない。」と言い張るが、帰還か定住かの判断を迫り、実質「避難」を終え、住宅支援を軸とする支援打ち切りを発表する。経済的に立ち行かず、福島県内の自宅に戻るしか選択肢がない人が、「なぜ被ばくを強要されなければいけないの?」と質問しても、無視されるのみ。

そんな矛盾だらけの現場のケーススタディをいくつも精査してゆく中で浮き彫りなるのが、国益、省益、県益という名の下正当化された、市民の「切り捨て」である。

時代を揺るがす災害(今回の場合、人災)が起こったとき、調査報道とは、なにも東京の国会図書館に通ってやるものではない。被害にあった人々の目線に立ち、彼らの人生の時間から、権力のあり方を照射すること、その齟齬を明らかにすることこそがその主眼にあるべきだ。その点、本書は、権力による「箱の復興」が、いかに「人の復興」から乖離しているのか、を丁寧に描き出しており、その視点の正しさとその背後を貫く記者の執念(=怒り)に、読者は心を動かされずにはおれない。調査報道のあるべき姿を示しているといえよう。

そして、読み終えた読者を襲うのは、官庁において、このような「省益」「国益」「県益」のメンタリティが根底にあり続けるかぎり、同じような災害があれば、再び同じ過ちが起きるという、暗い確信である。

舩橋淳

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プレイングマネージャーの痛み  

July 6, 2015

映画「選挙フェス!」(杉岡太樹監督)

 現代の社会活動の最も過酷なものの一つといえるだろう、「選挙運動」がいかに一人の若者の精神と肉体を蝕み、同時に刺激し、高揚させ、有り得ない高みに突き上げてゆくのか。究極には自分の主体性と指示によってしか動かないスタッフやメディア、支援者の中で、一人で全てを企画し突き詰めてゆくしかない孤独は、その若者を追いつめ、ボブ・マーリーやディエゴ・マラドーナ(もしくはキング牧師)のごとく歴史上のアイコンになれると本気で自分を信じ込ませてゆくしかない、神経症的な重圧状況が説得力のある形で画面に押し寄せてくる。そんな極度のインテンシティに、三宅洋平だけでなく、見る観客へも圧倒的な陶酔と憔悴をもたらすのがこの作品の強度と言える。

三宅洋平自身の人としての魅力は、充分に描写されている。支持者との論争で、とことん腰を据えて話そうとする三宅の姿勢は尊敬できるものだし、ステージ上/演壇上で、次から次へと言葉を音楽的に繰り出してゆくグルーブ感は突出しており、それは彼の突出した才能だと納得する。

本人の語る素晴らしい(皮肉でなく)政策と理想があろうとも、そんなことお構いなしに起きる現場での細々とした問題。日々の「選挙活動」の雑用の中で、ボランティアを束ね、現場のスタッフを刺激し続けるプレイングマネージャーの辛さは、ひりひりする。

とはいうものの、そんな三宅がどう社会に受け入れられているのかという描出が少し弱い。三宅洋平個人に張り付きすぎて、若者の中に生まれた新たな民主主義への熱気のような社会現象まで見えてこない。

そんなこと報道で知ってんだからいらない、という声もあるだろう。しかし、本人が「選挙=一滴の血も流さない革命」というのだから、社会がどう変革しているのか、小さな窓から外の社会の何が見えてくるのか、外への穴を穿とうとする視点があるべきでは、と思う。

作品の強度は圧巻であるので見られるべき一本だろう。

「原発と大津波 警告を葬った人々」 添田孝史

January 23, 2015

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時間が少しかかったが、読了。

「想定外」というのは、政府・官僚と東電がつくり上げた壮大な虚妄だったということ。

地震学など科学的知見が電力会社によりいかに無視され、土木学会の退廃によりよっぽど低い安全基準が“とりあえず”パスし、原子力安全・保安院が規制権限を行使せずスルーし、メディアが数々の科学的物的証拠による警告を見逃し、吠えない「番犬」と化したのか、を克明に活写し、総体として曖昧模糊に創り上げられた「安全文化」を殴打する。

素晴らしい労作であり、記者そして国会事故調の協力者として同時代を生きた、筆者の後悔と執念が見える。

残念なのは、そこから改善のための提言が弱いところだろう。
ホイッスルブロワーを生み出しやすい環境を作るべき、など良く耳にする指摘はあるものの抽象的すぎて、もう少し具体的なアイデアと水平展開できる汎用性がないと有効ではない。ここの紙幅が少なく、この打開策こそもっと掘り下げて欲しかった。

東電、官僚は自分たちの目先の経常利益、省益をあげるために、いつ効果の上がるかわからない(=短期的には損にしかならない)地震・津波対策にカネをつぎ込むのを避けてきた。その背後には、悪意があるわけでなく、むしろ自分たちの与えられた職責の枠の中で、最大限、成果を上げようといわば、善意の努力があるのだ。悪の凡庸さである。この善意の努力をいかに、一企業、一省庁に囚われず、全体の幸福と安全のためにどうすべきかを考える視点に、いやがおうでも立ってしまう、そんな組織のエコシステム、ダイナミズムを生み出すべきなのだろう。感覚的には、ベクトルを逆にする感じなんだけど。

みながまじめに、善意をもって働いているが、その総体が悪を生んでいるときどうすれば良いのか。難しい問題だ。考え続けたいと思う。

2014年衆議院議員総選挙について

December 13, 2014

今回の総選挙について私見を書きました。
ぜひ読んでみていただきたいです。

ポリタス【総選挙2014】
安倍政権のその後を見つめる峻厳な覚悟

http://politas.jp/articles/285

エッセイ:Selective Perception 選択的知覚について

June 26, 2014

先日、映画関係の仲間が、

「震災関係の映画、原発事故関連の映画はなかなかお客が劇場に入らない。だって原発事故も震災も関係のない日常に生きている人はもう見たくないんだから」

とぼやいていた。

おおざっぱな言い方で、関係者は気を悪くされるかもしれないが、そのような傾向ははっきりと数字で出ている。

その背後には、Selective Perception 選択的知覚があるんじゃないかと僕は思った。認知心理学の用語らしいが、意識下で怖れているもの、不安なもの、嫌なものについて、それに関する情報をシャットアウトしてしまう認知の在り方だそう。

原発事故から物理的に遠く離れている人々は、この選択的知覚を行い、そんなことは知らずに毎日を過ごしたい(しかし東京は福島の電気を使って来たのに)、福島県内や線量の高い関東の地域では、毎日被ばくのことまで考えたくないから、その情報は遠ざける。(もちろん全員ではないです)

また大きく成長発展する中国や韓国を受け入れようとせず嫌中嫌韓に走るのも、
日米同盟があるからアメリカは日本を守ってくれるはずだ、と信じて、従米の忖度ばかり(アメリカにとってはどうでもよい)精を出している与党の政治家も、選択的知覚と言える。

もっと相手を知るために、向こうの国に行って話せばいいのに、こちらの内輪だけ情報で共同幻想を創り上げる。そう、情報といえば、日本のマスコミ自体が選択的知覚に陥っているのかもしれない。

このようにいろんなレベルで選択的知覚が起きているのが、今の日本のような気がする。

それは総体として、とても物騒な現象だ。

人々を同意見の仲間内だけにグループ化させ、断絶を生み、人と人の距離を遠ざけてしまう。

まだまだ復興できていない地域、原発避難を続ける人々がいる時期だからこそ、風通しventilation を良くしたいものだ。

選択的知覚: 参考まで
http://japanese.joins.com/article/601/93601.html?sectcode=120&servcode=100

桜の季節と言えば、

April 1, 2014

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桜の季節と言えば、

3年前に茨城・日立で桜の映画を撮ろうとしていたら、大震災・原発事故が起き、映画が撮影中止となったことを真っ先に思い出す。

そして、急遽、双葉町のドキュメンタリーを撮ろうと思い立ち、旧騎西高校に通いだしたのがこの頃。

高校の側の満開の桜を撮りながら、大げさでなくこの先日本はどうなってしまうのだろうと、広がる放射能の恐怖に怯えていた。

その一年後、日立市から「やはり、震災で映画を中止にしたくはない、やりましょうよ」と話を頂き、幸運にも予算も集まり、「桜並木の満開の下に」がクランクインした。下町のプレス工場と桜並木、そして日立の海がメインのロケーションだった。

桜が開く直前のつぼみを撮り始め、ロケ終盤に満開になるという理想的な状況に恵まれ、桜の映画が完成した。震災前に書いた脚本は、その骨組みは変わらないが、震災後の日本が抱える心の空虚がいたるところに見え隠れするまったく別物の作品となった。

ちょうど911の直後にニューヨークで感じたように、映画、演劇、文学、芸術と言われるものは全て時代を揺るがす事件の影響を少なからず反映していた。

それが、自分にとり「桜並木〜」である。

公式HP:
http://www.office-kitano.co.jp/sakura/

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「フタバから遠く離れて」無料公開終了につき感謝!

March 24, 2014

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昨日まで13日間続いた「フタバから遠く離れて」の無料公開。

再生回数はなんと15947回!
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たくさんの方に観ていただき、そして情報の拡散にもご協力いただき、感謝、感謝です。

できるだけ多くの方に今もつづく原発避難の現状を見つめ直して欲しい、という意図に共感していただいたんだと思います。

さらに、第二部制作へのご支援もたくさん寄せられました。

こちらクラウドファンディングのサイト(https://motion-gallery.net/projects/nuclearnation2)へ、13日間で、204人の方より122万8800円の支援をいただきました。

いま制作中の映画への大きな期待を感じ、身の引き締まる思いです。

昨日は、ふたたび帰還困難区域内の双葉町で撮影を行いました。
すでにこのサイト情報を知っている双葉町民の方もいて「がんばってくれ」と声を掛けていただきました。

映画だけではなく、それを超えたフタバの輪が広がってきていると感じます。

無料公開をやって良かったと思いました。

さらに第二部の制作は、あと4ヶ月続きます。

このサイトでは、双葉町の情報、原発避難、原子力行政、僕たちのエネルギー、みんなの民主主義について考えてゆきたいと思いますので、ちょくちょく覗いてみてください!

そして、第二部支援の方もさらに拡散ご協力いただけたらと思います。

これからもどうぞよろしくお願いします。

まずは感謝まで!

舩橋淳
監督