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【書評】「日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか」矢部宏治

June 20, 2016

「無期限に、どんな兵器を持ち込んでいるのか日本政府へ知らせる義務もなく、日本防衛以外の他の目的でじゃんじゃん使える」基地を、どうしてアメリカが日本国内に持つことが可能になったのか?

戦後の米軍占領下にさかのぼり、そこから二つの安保条約、昨年の新安保法制まで、歴史と国際政治学を縦糸と横糸に編み込み解き明かした。

戦後米軍占領下マッカーサーの最初の構想は、日本は非武装中立となり、沖縄を含む太平洋の島々に配備する国連軍に守られるというものだった。

それが1950年朝鮮戦争が起こり、占領軍が日本から朝鮮へ出撃してゆく最中(「日本の4つの島は巨大な補給倉庫になった」)、サンフランシスコ平和条約で日本が独立したことで、歯車が狂いだした。

平和条約と同時に結ばれた旧安保条約の追加文書に、
「継続中の朝鮮戦争については、国連軍への日本を通しての軍事支援を今まで通り続ける(要約)」

とあった。国連軍は、もちろん米軍を意味し、つまり日本が独立後も米軍への軍事支援を行い続けるという素地がここで出来上がってしまった。

そして、何度かの修正の過程で、

朝鮮戦争での国連軍への軍事支援 
   → 朝鮮以外の場所でも自由に戦争する米軍への支援

(駐留する米軍は)外部からの武力攻撃に対する日本の防衛だけを目的とする 
    →極東における安全保障、ならびに日本防衛  (意訳)

へと書き変えられていった。

つまり、「極東における安全保障」のためなら、米軍は日本から出撃して世界のどこでも戦争ができるということにされた。

最初の段階から比べると、まさに「詐欺に遭った」歴史。

そして、これに様々な密約が追加され、60年の安保改定、日米地位協定という不平等条約になった。

占領下における戦時体制(戦争協力体制)をずるずると引っ張られ,うまいこと言って、使われているのが、今の日本の米軍基地であり、殆ど隷従的な日米関係なのである。

ここまで読むと、げんなりしてしまうのだが、筆者はこれをふまえて、日本はどうやって、日米を対等な関係に持ってゆけるのか、誠実で深みあるリサーチをふまえて提言をしている。

<二つの日本独立モデル>
 フィリピン・モデル ——米軍撤退条項と加憲型
 ドイツ・モデル ——朝鮮半島統一による朝鮮国連軍の消滅、そして米軍撤退

これは、リアルにあり得るモデルケースとして説得力がある。

 こういった提言を通して筆者が最も強く主張しているのは、戦後占領下からずるずると続いてきた、国連軍という名の米軍に日本を自由に使わせる不平等条約(「敗北を抱きしめて」のジョン・ダワー氏のいうサンフランシスコ・システム)を一度リセットしようというものだった。

改憲問題を語る上で、必ず語らざるをえない歴史の経緯と現状の矛盾がここに整理されている。必読!

(出版元:集英社インターナショナル)

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書評:「原発棄民」 日野行介(毎日新聞出版)

March 4, 2016

長引く原発避難の現状を探るため、仮設住宅、見なし仮設、復興公営住宅、災害公営住宅(←この2つの違いがわかるだろうか?)、役場、県庁などなど徹底した現地取材で炙り出す、現場の不条理が活写されている。

福島原発事故の長期化が明らかになってきた2012年に、単なる仮設住宅ではなく、住居、学校、病院、福祉施設からなる町外コミュニティ拠点(いわゆる「仮の町」)を作るべきではないか、という避難民の人生にとり最も本質的な議論が福島県や総務省で開始されたとき、法的に二重戸籍を作れない、という役所の都合で、廃案になっていったという驚くべき事実を、時系列にそって緻密に調査している。

その過程で明らかになるのは、「復興」がいかに本来あるべき姿からかけ離れた、役所の内的な都合で決定されてゆくのか、という寒々しい姿である。

住宅援助(見なし仮設、復興公営住宅など)についても、状況的には「避難」であるはずなのに、復興公営住宅に入居したり、新居を買う場合の賠償金の増額制度によって、新たな土地への定住に人々を追いやり、そうすることで、「避難の終了=賠償の打ち切り」をできるだけ早く達成するという目標ありきで、国が、県庁が、施策を進めていることが明らかとなる。

自主避難者に対してはもっと酷い。そもそも国際基準1mSv/年の20倍の、20mSv/年で線引きをしている避難基準の矛盾が噴出する。役人は、「帰りたいか、帰りたくないかをそれぞれ決めてもらう。帰還を強制している訳ではない。」と言い張るが、帰還か定住かの判断を迫り、実質「避難」を終え、住宅支援を軸とする支援打ち切りを発表する。経済的に立ち行かず、福島県内の自宅に戻るしか選択肢がない人が、「なぜ被ばくを強要されなければいけないの?」と質問しても、無視されるのみ。

そんな矛盾だらけの現場のケーススタディをいくつも精査してゆく中で浮き彫りなるのが、国益、省益、県益という名の下正当化された、市民の「切り捨て」である。

時代を揺るがす災害(今回の場合、人災)が起こったとき、調査報道とは、なにも東京の国会図書館に通ってやるものではない。被害にあった人々の目線に立ち、彼らの人生の時間から、権力のあり方を照射すること、その齟齬を明らかにすることこそがその主眼にあるべきだ。その点、本書は、権力による「箱の復興」が、いかに「人の復興」から乖離しているのか、を丁寧に描き出しており、その視点の正しさとその背後を貫く記者の執念(=怒り)に、読者は心を動かされずにはおれない。調査報道のあるべき姿を示しているといえよう。

そして、読み終えた読者を襲うのは、官庁において、このような「省益」「国益」「県益」のメンタリティが根底にあり続けるかぎり、同じような災害があれば、再び同じ過ちが起きるという、暗い確信である。

舩橋淳

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書評「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」(雁屋哲著)

May 8, 2015

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【以下、出版ニュースへ寄せた原稿を一部修正して掲載します。舩橋】

誠実な取材に基づく、誠実な論考である。
福島を渡り歩いて見聞きした事実と、その後漫画の原作執筆の時に調べ上げた低線量被ばく、体内被ばくなどの国際的科学的知見を照らし合わし、「鼻血は事実」「福島から逃げる勇気を」と提案した本質ど真ん中の議論である。

筆者がうけた鼻血問題に関する批判は、①(筆者が)被ばくした程度の低レベル放射線で鼻血が出るという根拠がない、②福島は危険であるような風評被害を与えた、であった。それが科学的知見に基づく反論であれば、生産的な議論ともなったであろうがビッグコミックスピリッツ編集部に寄せられた殆どが、恫喝にも似たバッシング・中傷であったという。

筆者は、議論の核心を科学的に探求しようとすることなく、問題の周辺で闇雲に騒ぎ立てることの愚かさを批判しつつ、自分が見聞きしたフィールドワークのデータと専門家への取材から学んだ科学的知見を照合し、なぜ「今の福島の環境なら、鼻血が出る人はいる」のか、なぜ「福島から逃げるべき」なのかを論証してゆく。

いわゆる「風評被害」なのか否かは、あくまでも科学的に議論すべきであるのに、国・福島県が押し進める福島の安全・安心キャンペーン、さらに福島の人々が抱く復興への思いが作り出す巨大な福島の現状についてのポジティブイメージを瓦解させたとして、筆者は敵視された。

ここではっきり峻別されるべきは、感情と理性のごちゃ混ぜ状態である。
「感情」とは、福島の復興を応援したいと思う気持ち、福島が安全であって欲しいという思い、である。「理性」とは、科学的知見に基づく放射能の安全性への判断である。つまり、ICRP(国際放射線防護委員会)が定める被ばく許容量1mSv/年を超えている環境で、低線量被ばく、(飲食、呼吸による)内部被曝を受けつつ生きてゆくリスクの是非である。「美味しんぼ」の鼻血は、「感情」を抉るショックだった。それに「感情」から拒絶反応を示したのが今回の騒動であり、「理性」を直視せず、「感情」が「理性」を抑圧し、意識下に押し込めてしまうメカニズムであった。
 それは南京大虐殺、従軍慰安婦(Sex Slaves)などの加害の歴史と未だ向き合えない、日本人の習性に通底しているといってもよいかもしれない。合理的な分析で、感情を制することができないのだ。
 ここで我々が問題にすべき本質とは、「感情」と「理性」の相反するジレンマを背負い込む覚悟と行動である。東京電力と国によって引き起こされた人類史上最悪の原子力災害による「戦犯」が未だ誰も処罰されていない中、あらゆる局面で「加害者は遠くにいるはずなのに、そんなこといっても何も解決しない問題が目の前にある」のが今の福島だ。このジレンマをどこまで背負い込み、人々の復興に向けた提言と行動を示してゆくかが、福島を語る上で絶対不可欠な倫理的スタンスだと私は考える。
 ネットでのバッシングや電話攻撃は、自らのコンフォート・ゾーン(安全地帯)から一歩も出ず、ジレンマを背負い込むことを避ける無責任なものが多い。本気でジレンマを背負い込むことは厳しく辛いことであり、何がなんでも実効的なソリューションを見つけてやる、という執念がないことには持続しない。福島県内では、このジレンマを正面から背負い込み、除染を徹底し、放射線量を国の基準値100ベクレル以下を達成しようと全力で立ち向かっている農家がある。(その甲斐あって、今年福島県産の米は、基準値以上が初めてゼロとなった)私自身もドキュメンタリー映画「フタバから遠く離れて」の取材のため、福島県内でそのような農家の方のご苦労を聞いていると、人間的な「感情」の方にどうしても偏ってしまう。それは間違っている訳でなく、福島で被ばくを強いられている人々の日々のジレンマを一緒に背負い込む当事者意識があってこそ、その議論は聞くに値するものとなる。
 つまり、「べき」論、正論はいくらでも吐ける。しかし、今の福島では、様々な問題が未解決のまま放置されており、その現場のジレンマを共に背負い込まないことには、実効的価値はゼロなのである。
 その点、雁屋哲氏の取材は徹底している。部外者なりにできること=最大限知性的なアプローチと人間的な温かみを持って、福島の豊かな食文化と自然に向き合っている。南相馬市小高地区の米農家が、ゼオライトとカリウムを土壌に混ぜる「試験田」で米を1年育てた後、収穫し線量がたとえ出なくても、自宅で食べることは出来ず、全量田んぼに捨てなければならない。我が手で育てた米を捨てる農家の無念さ、切なさが痛いほど伝わって来る描写があり、雁屋氏も現地で涙したに違いない。そのような「感情」を全て背負い込みながら、「理性」と付き合わせてゆく作業(=ジレンマ)こそ、福島の未来に向けた生産的な言質になると考えた筆者のスタンスは正しい。
 しかし、幾つかの綻びもある。まず鼻血問題ばかりに拘りすぎて、被ばくの現状況への対策論が薄い点。つまり、福島県内には現在まで117人の小児甲状腺がんが報告されており、その分布は線量マップのそれに一致する。一刻も早く「最も酷い症状がでている地域」へ対策を急ぐべきである、ということ。チェルノブイリの知見からすれば、無論鼻血はあるが、それ以上の病状にリソースを集中させ、避難・保養などを一刻も早く為すべきということだ。
 「福島から逃げる勇気を持ってください」とは、誠実な言葉である。しかし、国が人命よりも被害の極小化を優先させるという「裏切りの時代」において、仕事や家族など止むに止まれぬ理由で、福島で被ばくをしつつ生きてゆくことを選択した人々がいる。その人々に対してどんな言葉を掛けることができるのだろうか。筆者の背負い込んだジレンマより、さらに踏み込んだまさに「生きる為のジレンマ」を抱く人々への言葉にはなり得ていない。それは、昨年暮れ、脱原発候補の二人熊坂義裕・井戸川克隆氏が福島県知事選で苦戦した理由の核心でもあった。
 最後に、「話題となっているから、売れるから出したんだろう」と炎上商法と見なされる風潮に対する徹底抗戦の構えとして、著者は印税ゼロ(もしくはカット)、出版社は売り上げの一部を寄付など、社会的意義をしっかり打ち出す、「脇固め」は必要だったのではないか、と私は思う。