Archive for the ‘cinema’ Category

Downhill  ダウンヒル A. Hitchcock

March 23, 2017

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1927 105 min
Ivor Novello as Roddy Berwick
Isabel Jeans as Julia Fotheringale

Hitchcock 9  東京プレミア2日目。

朝から眠気に勝てなかったのですべてははっきりと覚えていないが、ヒッチコック・サイレント初期にあって、台本をそのまま引きで撮っているという感がいなめない。いくつか、主観ショットをベースにしたサスペンス演出が、ヒッチコックらしいといえばそうだが。

悪女が次から次へと登場し、主人公(美男子)はダマされ続けるというプロットはヒッチコックらしい。まるく太った女性が何人もでてくるというのは、時代性というより、明らかにヒッチコックの好みなんだろう。美男子を老女相手にジゴロさせるマダムとか、あの大仰ななりの人物が次々にでてくるあたりはおもしろい。

「人生の下り坂」とかけて、エスカレーターの下りを見えるという「ナイーブ」(後にヒッチコック曰く)なショットなど、エレベーターの「DOWN」ボタンを押したりと、とにかく「下り」にこだわりまくったビジュアル。

途中フィルムの色が変わる。アンバートーンから、緑っぽいトーンへ。
それは、「悪夢」としてディゾルブを使うより、色のトーンを変えて、いつの間にか悪夢の中にいるという演出だったそう。フィルムをヒッチコックが染色したそうだ。

主人公のRoddy(Ivor Novello)が、悪女にダマされ続ける中で、だんだんと悲壮感が漂ってくるあたりは素晴らしい。

全体的に舞台のようなスタジオでの立ち芝居が続くだけなので、それが厳しかった。初期は演出がまだまだなのかもしれない。次から次へ畳み掛けるというよりは、まったりとしている会話劇が長いと感じてしまう。

ただ引きのショットで見せきるセンスはすばらしい、それは後にさらに磨きがかかってくる感性だ。

「息の跡」小森はるか

February 19, 2017

映画の画面、ワンショットごとに血を通わせること。
それが巨大震災に映画作家が向き合う唯一の方法であることを、小森はるかは誰に教わることもなく知っていた。荒れ果て、人気(ひとけ)もなくなった荒野が、一人のたね屋のつぶやきで、まるで違った風景に見えてくる。

彼女は、ひとりたね屋の定点観測を続ける。たね屋は、悲しみが深まることを避けるため、母国語でなく英語、中国語、スペイン語でつぶやきを続けてゆく。すると信じ難いことに、言語によらずともはみ出してくる、情感だけがこちらに浄化され伝染してくるのだ。たね屋の魅力を見いだし、キャメラとともに根気強く付き合い続けた彼女の胆力にひたすら感動した。

映画と震災の美しく、正しい接点に触れた気分である。

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SILENCE  Martin Scorsese

January 22, 2017

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「沈黙ーサイレンスー」 2017  原作:遠藤周作

内心の自由とはなにか、強く問いかける作品。
信仰とは本質的に、内的なものであり、他人に伝播し得ないもの。
だからこそ、それを布教しようとしたときに様々な矛盾と問題、対立が起きる。
ポルトガルによる布教、その権力と結びついた日本への布教作戦をとくと見せられるのだろう、と高を括っていると、実は信仰=FAITH の本質とは何か、それは自分の為のものか、もしくは他者のためのものか、社会のためのものか。ヨーロッパと全く文化・風土も異なり、土着的な八百万の自然神信仰が根付く日本という国に、ヨーロッパ本位の思想を押し付けても意味があるのか?遠藤周作の原作を映像でさらに補強し、その矛盾と不条理をえぐり出す強烈な作品となっていた。

Casino以降よく見られる、「その描写はいるのか?」と思えるディテールは相変わらずあって、それが長尺を生んでいるのだが、塚本晋也やLiam Neeson、イッセー尾形、浅野忠信の圧倒的な熱演でテンションが持続しており、「見れてしまう」のが作品の完成度を語る。特にLiam Neeson 演じる棄教した神父の暗いプレゼンス、悪魔的な語り口が素晴らしく、もちろん日本に帰化したという雰囲気はあまり感じられないという不満はあるものの、<沈黙>の裏=娑婆にいきる人の苦悩を体現し、イッセー尾形(彼もすごかった!)映画の後半を支えきっている点は素晴らしいといえまいか。

世界規模で他者への寛容、内心の自由が脅かされている今の時代に見る意義のある作品である。

A HAPPY NEW YEAR 2017

January 2, 2017

明けましておめでとうございます。

2016年は多くの方にお世話になりました。
また新しい年が始まりましたが、ぜひどこかでご一緒させていただいたり、お話しさせていただく機会があることを待ち望んでおります。どうぞよろしくお願いします。

昨年は、おおまかな言い方で恐縮なのですが、世界全体が「ぎすぎすした方向」へよりアクセルを踏み込んだような気がしています。主にシリアからヨーロッパへ押し寄せる難民問題、それによる欧州全土の動揺・右傾化(特にフランス!)、Brexit、そしてトランプ旋風など、他者を受け入れるよりは排斥する方が良いとする空気が世界を席巻しているように思えます。トルコから欧州への接続地帯やコロンビアを中心とした南米の国境地帯では、武装化が至極当然に進められており、南シナ海では中国と近隣諸国との緊張が極度に高まっています。そんな中、日米の首脳が広島だの真珠湾だのに訪問し合い、実質何も意味しない「和解」の言葉を語り合うのは、時代錯誤ではないかと思えてしまう最中、日本の天皇が生前に退位を決意したというのは、何か一つの時代の終焉と、その先の時代への深刻な警告のように感じられます。

で、僕たちが日々どうやって過ごしてゆくか、という話しになりますが、自国はもっともっと武装化すればよい!と物騒な言葉を息巻く人々がごくふつうにいる世の中になってしまいました。そこで、ローカールなレベルでの衝突をふっかけるのもいいのかもしれませんが、上のような世界的な「排斥傾向」の潮流で、一個人がどうしてゆくべきか、を考え続けるのが今年の(も)課題ではないか、と漠然と思っております。

僕自身は、映画という表現でそれを語ってゆくしかないわけなのですが、メタのレベルでも、ローカルで個人的なレベルでも、共感を広めてゆくのが自分の役割であるのかな、とも感じています。

みなさん、本年もどうぞよろしくお願い致します!

舩橋淳
映画作家
BIG RIVER FILMS

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「雨にゆれる女」   

September 29, 2016

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半野喜弘 監督  2016

陰鬱な湿り気に満ち満ちた廃屋の鉄パイプ。
人がきっと血を流すに違いないと思える曇り空や、荒々しい冬の海の表情。
もはやこの世で誰の助けも借りずに生きるしかないと覚悟している男が喰うメシの音。
“映画の光”と“映画の音”を正しく捉え、“映画の人物”を正しく画面に収める感性は卓越している。
この映画的血脈の“正しさ”を、惜しげもなく画面の隅々に漲らせる半野善弘の処女作は、その予算規模に反して、贅沢な一本に仕上がってしまった。素晴らしい。

「ダゲレオタイプの女」(黒沢清 2016)

August 16, 2016

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黒沢清監督初のフランス語作品「ダゲレオタイプの女」拝見。

初期写真技術の現像液の水銀と毒薬に身体を侵された人間たちが、半死半生の世界を漂い続ける。

フィルムの銀盤に身を委ねることは、死への彷徨なのか、永遠の生なのか。

人物たちが生きているのか、死んでいるのか、という基本的な問いだけで、胃が引きちぎれそうなサスペンスを演出してみせる黒沢さんの手腕に脱帽。

自分の理解できない言語のドラマを演出することによる、画面の乱れが皆無であることは、本当に信じ難い。

傑作!

「みな殺しの霊歌」 

August 15, 2016

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監督・加藤泰 1968  90分
出演:佐藤允 倍賞千恵子

激しすぎる。
こんな激しい映画はみたことない。

一瞬一瞬が熱湯のような映画。
加藤泰の血しぶきが全てのフレームに詰め込まれた激情の映画である。

主人公たちは常に、一点を凝視してぷるぷる震えているか、
泣き叫んでいるか、のどちらかで、
怒り狂うものと、泣き叫ぶものと、茫然自失のものたちだけで画面が占められている。

なぜだろう、いつも水が「ガッーーーーーー!」と出しっ放し全開で、汗が吹き出た暑苦しい男たちが無意味にすぐそこの建設現場で働いており、それが殺人現場に「なぜか!」隣接している。それら無意味さが正当化されるのこそが、映画であると気づかされる。

主人公、時効寸前の逃亡殺人犯(佐藤允)が心を通わす女・はるちゃん(倍賞千恵子)は場末の中華屋で働いているのだが、閉店後に入ってきた殺し屋は、「もう火を消しちゃった。店を閉じるんだよ。簡単なもんだったら・・・」と言ってるのに、わざわざ「かつ丼」を注文し、なぜかその要望は受け入れられる。「なんで?」の連続なのに、その画面があまりにも暑苦しい密度に満ちているため、見る者は納得する。

 そう、これは細部の突出の映画。さんざん見せられる有閑マダムたちのマンションも、結局全体像はわからず、闇の部屋という印象だけが残る。

 中華屋のはるちゃんと殺し屋がしんみり話す原っぱなんか、いったいどこなのか? 荒川の土手が好きだといっていたから、荒川の土手なのだろうか。
しかし、このシーン、最初は「なぜか!」佐藤の指に刺さったとげをはるちゃんが針で抜いてやり、「ぎゅっ」と出血した指をすってやるカットから始まり(意味不明だが、激しい顔のアップの応酬!!)、ポンと引いたロングショットでかろうじて原っぱ(荒野か?と思えてしまう)だとわかり、ぼんやりと薄くなったはるちゃんの横顔がなんとも美しく、記憶から消し難い。そして、また違った角度からの引きのショットへと繋がり、遠くから強烈な夕陽が二人に襲いかかる。おもむろに立ち上がった二人の間には「なぜか!」高低差があり、高いところから飛び降りるようにして、はるちゃんにダイレクトに抱きつく殺し屋がいる。その落下運動の激しさ!!
こんな細部、忘れろといっても忘れられないような演出が盛りたくさんなのだ!それらは「なぜか!」という無意味さを軽々と凌駕してゆく。

物語は、うぶなクリーニング屋の青年を輪姦した新宿クラブのマダムたち5人を、「おまえたちは寄ってたかって、一番きれいなものをめちゃくちゃに汚しやがった!そんなことがまかり通るのか!?そんなことじゃ、神も仏もねぇじゃねえか?!」と逃亡殺人犯(佐藤)が怒りの鉄拳で、一人ずつマダムを殺してゆくというもの。だが、よくよく考えると、そんなんで5人も虐殺するのか、と思ってしまう(その意見は刑事の口からも漏れており、映画中もちゃんとフォローはされている。脚本構成の秀逸さ)のだが、極端に思い詰めてしまう正義感の強い人間がえてして社会ののけ者にされてしまう、という加藤泰が込めたアイロニーが熱く画面にみなぎっていた。

映画は、「どんな理由でも殺人は罪なのか?」ときわどい問いを熱く投げかける。

殺人に走る者は、わかりやすい悪人などごく少数で、実は繊細で極端に思い詰めてしまう正義の人間が、不器用に突っ走ってしまった悲劇ばかりなのではないか。

社会で弱者、悪人とレッテルを張られる人間を擁護する熱い思いが、加藤泰の根底に流れるもの。

その熱量に僕らは圧倒され、熱狂し、共感する。

Hee <火> 桃井かおり監督

July 20, 2016

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浜辺らしき強い日差しの道端で、ばしゃばしゃと水で素足を洗うワンピースの女。

男と別れ、家庭も崩壊し、その中途で人を一人や二人、殺しているのかもしれぬ。

ことの次第は、精神科医との対話の中で、少しずつ明らかになってゆくだろう。

狂っているのは、この役の女か、それとも桃井かおり自身なのか。

挿入される女のイラストが流麗で美しく、それが炎で燃えて消えてゆく描写もなんともエロチックだ。

それも桃井自身の手により描かれたという。  

新たに生まれつつある映画作家・桃井かおり自身の肉体がスクリーンにぶつけられている。

自身が狂いつつあるドキュメントと、自分のもつエロさを最大限作品に取り込もうという演出力。

脚本もほとんど1日で仕上げてしまったという桃井は、多くの刺激を体で受けとめ、一挙に吐き出す才能に長けている。

一筆書きの女は、熱く太く生きる、その鮮血の脈動を見るものにぶつけてくる。

そんな作品である。

http://hee-movie.com/

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3月 香港国際映画祭にて

『わたしの自由について~SEALDs 2015~』 西原孝至監督

May 15, 2016

2015年安倍政権が安保法案を成立させていった過程で、SEALDsの学生たちはどんな声をあげ、何をしたのか。彼らの信頼を得、密着して撮影したこの作品は、彼らの圧倒的な熱量をあますことなく伝える。

保守・革新、右派・左派など学生運動が集団としてみなされた60年安保に比べ、60数年後の現代の学生は、自分たちの顔と名前をさらけ出し、「個人として」安保法制に反対する。煮えたぎる怒りと熱情がこちらにびんびんと伝わってくるばかりでなく、その主体のあり方の変化がすばらしい。「みな個人として、こんな国はいやだ!変えたいと思って、自然と集まっている(牛田くん)」ゆるやかな個人の繋がりが、パワフルなのだ。

まさしくそこに主体的な民主主義がある。ひとりひとり個人主体の政治意識=「わたしの自由」と、ゆるやかな団結(この言葉も古いけど)が次の世代の子どもたち、若者たちにかっこいいと思われるに足る、濃密な思考のうねりを産み出した。

 映画としてよくできている。反対意見や対立軸を示しきれていないという批判はこの映画にはあたらないだろう。なぜなら、SEALDsという小さな(しかし熱い!)窓からこの日本社会がどう見えているかを照射すること、そして主人公であるかれら学生たちの怒り、涙、笑い、焦燥、迷いなど、豊かな時間を一緒に経験させてくれる青春物語を描ききること、この二点において成功している本作は、一つの凝縮した世界観を指し示す映画として成立しているからだ。165分という長さがあっという間に感じられるのは、若者たちの血肉に見る僕たちが一体化してしまい、時間を忘れてしまうからに他ならない。

http://www.about-my-liberty.com/

「SHARING」 篠崎誠監督 

May 9, 2016

2年前東京フィルメックスで見て、その後、再編集された新バージョンができたということで、テアトル新宿で拝見。

強震が続く中で原発再稼働をする政府、市民の権利を制限し戦争に向かうことを厭わない権力者を日々目にして僕たちが感じるのは、「まさかそんなことは起こるまい」と思っていた潜在的恐怖の現実化である。

この映画では新たな原発が爆発する。

その恐怖を「まさか!フィクションの世界のお話でしょ」と切り捨てることのできない世界に僕たちは住んでおり、この作品は負の引力が渦巻く”いま”の社会の”みらい”を指し示している。

リアリティ・フィクション。

桐野夏生氏の新作「バラカ」を思い出した。

311以後、いまだ原発事故が収束せず、その恐怖が通奏低音のように辺りに満ちている日常の中で、フィクションにできること、やるべきことはなにか。この作品はそれを指し示しているかに見えた。

映画「SHARING」 篠崎誠監督 
http://sharing311.jimdo.com/

以下、以前作品に寄せたコメント。

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「映画において、編集点で区切られるショットには各々全く異なる時間が流れており、それが積み重ねられたフィクション———ホラーなり、サスペンスなり、 ラブストーリーなりがしかるべき物語を盛り上げ、指し示す“共有された”心理は、しょせん同じ時空間に所属していない人間たちの幻想に過ぎないという事実 を、ある苛烈な傷みをもって見るものに突きつける作品、それが「SHARING」(反語的なアイロニー)である。

大学構内という無機質な空間が、突如ぐぅ〜にゃりと曲がりはじめ、我々が立っている地面がぐらぐらと地殻変動を始める。映画を見る我々の視線が、どれだけ 作り上げられたフィクションの前提の上に立脚しているのか、篠崎監督は1ショットごとに暴いてみせる。過去なのか、現在なのか、未来なのか、ショットごと に時空を飛び越えるという、こんな画面の緊張を私は見たことが無い。我々は、果たしてこの映画を見終えた時、ここに立っていられるのだろうか。視線を投げ 掛ける我々は、一枚、また一枚と意識の層を剥ぎ取られ、その先には世界の行く末といっても過言ではないラストが待ちうける。
恐るべきサイコサスペンスの誕生である。」

舩橋淳(映画作家)

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