Archive for the ‘festivals’ Category

ドイツ・ニッポンコネクション 映画祭 DAY 2

May 30, 2017

今日は参加している他の作品を拝見。
石川慶さんの「愚行録」は、脚本が素晴らしい冷ややかなサスペンス。窪塚洋介さんと臼田あさ美さんが素晴らしかった。ポーランド人の撮影監督による映像もキレていた。のち、ドイツ映画博物館でのロマンポルノ特集へ。塩田明彦さんのイントロトークのあと、「四畳半襖の裏張り」(神代辰巳の傑作、英題はなんと”The World of Geisha”)を学生時代以来の再見。72分の短さに濃厚な血潮が詰まっている感じ。遊び男と芸者のセックス、大正の米騒動、中国、ロシアとの戦線拡大とあらゆる同時代要素をいっしょくたに描いてしまうという図太い繊細さに感動する。

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YIDFF 2015 強度の映画

October 16, 2015

20年前の大学時代に、故・佐藤真氏に連れられ訪れて以来、何度も足を運んできた山形の映画祭。今年は3日しか参加できなかったが、映画の現在を肌で感じ取ることのできる強烈な作品に幾つか出会った。

全体の総括をするには見た本数が少なすぎる(7本)ので、印象を記録するだけにとどめるが、画の強度が圧倒的な作品が多かった。「真実を捉えているのだから」というエクスキューズで、手ぶれガクガク、もしくは戦略もなくド正面をとらえただけのインタビューなど、時代遅れの感がある。視線の確かさを突き詰めてゆけば、自然と落ち着いた画面となり、さらに被写体の全存在を深く捉えたいと願えば、キャメラは当然“正しい位置”に据えられ、それが画面の強度へと繋がる。逆に、映像言語への批判的アプローチなしに、無防備にキャメラを被写体に向ける姿勢は、高画質キャメラがスマホにもついている現代においてあまりにも無知であり、画面の強度は、映画作家が自分なりの矜持と視点の独自さを主張し、自己を確立する上で避けられないサバイバル戦略といえるのかもしれぬ。

ロバート・フラハティ賞(グランプリ)の「HORSE MONEY」は、あらゆる言語による分類を拒む、ただただ強度の映画であった。「コロッサル・ユース」のような浮遊する劇空間は、Ventura の住むフォンタイーニャスから離れ、架空の地下プリズンへ遷る。闇に浮き上がる人の影をスタンダードサイズで切り取ってゆくというスタイルは踏襲しつつ、どこなのか、いつなのか、時代も場所も不明のまま、Ventura は自ら「19歳と3ヶ月」と言い放ち、植民地カーポヴェルデで過ごした幼少期へ記憶を遡行させる。ドキュメンタリーというカテゴライズは全く無効の領域で、コスタは孤独に舟を漕いでゆく。むき出しの映画そのもの(それを自分は「零度の画面」と呼んだ。詳しくはここに:http://www.flowerwild.net/2008/01/2008-01-29_191812.php)を突き詰める作家コスタの姿勢は常にレスペクトに値する。

「祖国—イラン零年」は、驚愕の一本。2003年米ブッシュ政権によるサダム・フセイン政権への圧力が高まってゆく中で、バグダッドに住む監督の家族を撮っただけのファミリービデオが流れる。と思いきや、爆撃が始まり、その後の世界の混乱と矛盾がばんばん突きつけられる。市民目線から由縁のない戦争に巻き込まれる不条理を、激烈な痛みとともに突きつける傑作。
同作と同じく優秀賞に輝いた「銀の水 シリア・セルフポートレート」も、一人称から進行する戦争の痛みを捉えた作品。世紀末的な廃墟の続く荒野が、アジアの西端に存在し、なお殺戮が続いていることに溜め息が出るばかり。
W杯で盛り上がる中、ブラジル格差社会の陰影をデイトレーダーたちとともに描いた「6月の取引」は、野心はすごいが映画として何かが足りない。
「Dreamcatcher」は、シカゴで売春する少女達を更正させようとする団体のリーダーを描いた作品。4歳でレイプされただの、8歳からストリートに立っている(立ちんぼということ)だの、現実が強烈すぎて、何度も殴打されるような感覚に襲われる。
山形在住の農民詩人木村迪夫を描いた「無音の叫び声」は、アプローチは凡庸であるものの、農村の原風景の賛美が、戦争批判に繋がるとまで喝破した作品。作家の執念が伝わってきた。
「HORSE MONEY」とともに最も傑出していたのは、「トトと二人の姉」(アレクサンダー・ナナウ監督)。ルーマニアのジャンキーハウスに住む3姉弟を観察的視点で寄り添った作品。劇映画なのかと思えるほど、ショットの構成に手が込んでいる。被写体が自由に動き回るドキュメンタリーの現場(なにせ相手は子どもとジャンキーだ)で速やかに映画の画面を切り取ってゆく慧眼と技術力に感動。さらに時間の省略や編集の妙によって、主人公達の感情の起伏をストーリーテリングとして構築してしまうあたりも、劇映画の見せ方とも言える。無論、ドキュメンタリーとフィクションのハイブリッド・シネマはもう長らく存在している。しかし映画が真に躍動し始めるのは、主人公の姉弟にカメラを持たせ、セルフドキュメントの時間をも映画の肉体として取り込みだした瞬間であり、ショットの精度と魅力にこれがさらに加わり、映画はミックス、シャッフルされてゆく。アプローチも、コンテンツも傑出した一本と言える。

コンペ作品「真珠とボタン」が東京で封切りされた、パトリシオ・グスマンの『チリの闘い』(1975-78)を見逃したのが、唯一悔やまれる。

しかし、作品のカテゴリーがどうであれ、画面の強度が突出する作品ばかりが映画祭で目立つようになったのは、誰でも動画を撮れるようになった時代に映画が生き残ってゆくための一つの方向性と言えるかも知れない。佐藤さんならコスタを見てどういっただろうか。ブレッソンをひたすら礼讃し研究していた彼なら、また新たな角度から斬っていたに違いない、と思いつつ僕は山形を後にした。

Edinburgh IFF Report

June 22, 2012

“Nuclear Nation” was screened at Edinburgh International Film Festival.
Moderated by Chris Fujiwara, artistic director of the festival, Q&A session and discussion with me and the audience were very intense. The topic includes: today’s dilemma of Fukushima refugees, moral hazard of using nuclear power, Japanese history of atomic energy and bombs, media ethics, etc.

Prior to the screening “Fukushima & Documentary,” a discussion event was held at St. John’s church.
I talked about the human cost of this nuclear crisis with Toshi Fujiwara, director of “No Man’s Zone.”

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Opening Night Gala!
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Artistic Director Chris Fujiwara & Atsushi Funahashi
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An interesting coincidence was that his Holiness 14th Dalai Lama came to Edinbrgh to give a lecture on that day.
We shared some audience and heat to the theme: human ego in modern civilization. (Atsushi Funahashi)
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「ニュークリア・ネイション」が正式招待を受け、6月22日に上映された。
今年から映画祭のアーティスティック・ディレクターを努めるクリス・フジワラ(日本ではオットー・プレミンジャー研究などアメリカ映画史家、批評家として知られる。アテネ・フランセでのアメリカ映画についての充実した講義シリーズが記憶に新しい)が司会で、ポスト・フクシマの映画と社会の関係、日本の現状についてディスカッションが行われた。スコットランドの観客の問題意識もとても高く、大飯原発再稼働、首相官邸を取り巻くデモについて知っている方までいたのには驚いた。

その日の前日、エジンバラ市内目抜き通りにあるSt. John 教会で ”Fukushima & Documentary” と題した公開フォーラムが開かれた。僕と「無人地帯」の藤原敏史さんが招かれ、フクシマの責任の所在、社会問題を映画で描くことの倫理性などについて討議した。

偶然ではあるが、その日ダライ・ラマ14世がエジンバラを訪れ講演会を行った。出席した方でNNの上映にも来られた方も多数いたのだが、人間のエゴと文明というテーマが共通していた、とのことであった。  

エディンバラ映画祭へ:NN上映・相米慎二特集

June 19, 2012

エディンバラ国際映画祭に拙作”Nuclear Nation”が招待された。
同映画祭は今年からプログラム・ディレクターに批評家Chris Fujiwara が就任し、彼が招待してくれた。
特集上映も彼のディレクションで組織されていて、今年は相米慎二のレトロスペクティブ。
自分も上映後に相米についてChris と対談することになっている。

相米慎二は、水と歌と裸の作家である。
登場人物は、裸になり、歌を歌い、土砂降りの中で踊る。水たまりがあれば、ダイブするか、ずっこける。
これは日本人が酔っ払うとやってしまうことと同じである。
社会からの抑圧と、それからの解放が、映画の主題になっているからに他ならない。

エスカレーションの作家でもある。
最初の設定では想像もしなかったほど、状況が逸脱し、群像劇として人物たちが破綻してゆくのが、物語のアーク(展開軸)となっている。そこに総体として同時代の社会が浮き彫りになる。例えば「台風クラブ」の場合、80年代の開放感が画面に溢れており、ミッドライフ・クライシスのどん詰まりに陥っている教師(三浦友和)と言えども、暴力的とも言える楽観性に満ちていて、その背後に少年達が感じる漠とした不安であり、心許なさがラストに浮上する。もう、バブル崩壊の警鐘がそこにあったと言える。

相米においては、社会の規範とそれからの逸脱・破綻が、何度も違う形で変奏される。
大人と子どもはその両極を示す装置である。
大人=社会が揺れ動き混乱する中で、少年達がそれにどう反応してゆくのか。
エドワード・ヤンに酷似している。
そういえば、あの土砂降りの雨と闇も、ヤンを思い起こさせはしないか。

今日見直した「台風クラブ」は、巨大台風が長野のある田園地帯を直撃し、地元の中学校に取り残された少年少女が物理的にも心理的にも大きく揺さぶられる一夜を描いてゆく物語。基本ほとんど1シーン1ショットにより、事態が極まってゆく時間を深めてゆく演出力は堂に入っており、世界レベルである。今カンヌを騒がせているルーマニアの作家Cristian Mungiu (実は友人でもある)も、1シーン1ショットをそのスタイルにしているが、相米の世界の偶然性をも取り込んでしまうようなキャメラの包容力を学べば、さらに一皮むけるのにと思えてしまう。それほど、相米の持続は熟達しているし、単純におもしろい。

NN reviewed on Korean newspaper.

May 19, 2012

“Nuclear Nation” was reviewed by The Kyunghyang Shinmun, with an interview of dir. Atsushi Fuanahshi. (Issued on Thursday May 17th 2012. Reporter: Jeong-min Mok )
ソウル環境映画祭中に”Nuclear Nation”が京鄕新聞で紹介されました。

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