Archive for the ‘Filmmaking’ Category

async  あるいは 草の音

April 10, 2017

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僕は、映画でも音楽でも作品を鑑賞するときはできるだけ予備知識を持たずに
向かい合うようにしている。パンフを読んだり、ネットで検索して、おもしろいかどうか値踏みしてから見る/聞くという傾向もあまり好きではない。ある一つのexpectation/期待にそって、作品を鑑賞するのは作り手にとって失礼だし、アートとはそもそも自己完結しており、何も知らない人に向けて開かれているべきと思うからだ。

というわけで、坂本龍一さんの新作「async」も何も予習もせず、何も情報を取り込まず、まっさらなCDを購入して聴いた。(教授が新作に取り組んでるというのは勿論あちこちで耳にしていたが、内容については耳を塞いでいたというのが正確か。)まず最初に通してtrack 01 からtrack14まで聴いて思ったのは、映像的な奥行きがある作品だな、ということ。無数の惑星がパースペクティブの果てまでつづく宇宙空間に身を委ねながら、ゆるりと視界が歪み、拡張してゆくのをそのまま受け止め、呼吸するような。音楽が三次元的な奥行きへ、聴くものを導いてゆくといったらよいだろうか。まるでタルコフスキーだ、と直感した。

現にタイトルを見るとsolari, stakra, walker, のように、タルコフスキー映画のような曲題がある。これは!と思って、ネットで検索していると、教授が「架空のタルコフスキー映画の音楽」と言っているのを発見。やはり!と手を打った。

実際、この音楽がついた映画こそ見てみたいと思わせるものだった。それはネットであがる動画ではなく、New York でいうとLincoln Center, ベルリンでいうとBelinale Palast、東京でいうとピカデリー系劇場の巨大なスクリーンで上映される映画である。壮大で揺るぎない時間の流れ、一つの世界がそこにあり、音響がその世界のムードを醸成し、人を誘うような。

映像的奥行きにおいては、Track 5の”walker”は傑出している。冬の凍てついたロシアの荒野を、ブーツ姿の男がザクザクと歩を進め、湿地帯の泥地、草むらを分け入ってゆく。とてつもなく芳ばしい(!)草の匂いや、冷えきった大気を覆う霧が素肌に染み込んでくるよう。この男はどこへゆくのだろうか。そこにある時間の持続が、宇宙の摂理そのものにつながっているような、引き延ばされたeternityを饗応させるものだった。

タルコフスキーの言葉で、artistic freedomを否定した言質がある。

I therefore find it very hard to understand it when artists talk about absolute creative freedom. I don’t understand what is meant by that sort of freedom, for it seems to me that if you have chosen artistic work you find yourself bound by chains of necessity, fettered by the tasks you set yourself and by your own artistic vocation. Everything is conditioned by necessity of one kind or another. (Andrey Tarcovsky “Sculpting in Time” より)

アートとは、作り手の内的な葛藤のすべてを反映させたものであるべきであり、それは自由に表現できるというよりも、すべてが必要性の鎖でつながっているものである、という考え。アーティスト自身の生々しい内なる声が、表現に昇華されるとき、それは本人にとり待ったなしの、A,B,Cどれでもいいわけではなく、その間に横たわるA’ のような一点に限られる、ということ。

坂本龍一にとり、async とは、sync の差異とズレの狭間にある一点を照射した、彼自身にとり絶対必要な何かなのではなかろうか。

第一印象として、そう思えた。

YIDFF 2015 強度の映画

October 16, 2015

20年前の大学時代に、故・佐藤真氏に連れられ訪れて以来、何度も足を運んできた山形の映画祭。今年は3日しか参加できなかったが、映画の現在を肌で感じ取ることのできる強烈な作品に幾つか出会った。

全体の総括をするには見た本数が少なすぎる(7本)ので、印象を記録するだけにとどめるが、画の強度が圧倒的な作品が多かった。「真実を捉えているのだから」というエクスキューズで、手ぶれガクガク、もしくは戦略もなくド正面をとらえただけのインタビューなど、時代遅れの感がある。視線の確かさを突き詰めてゆけば、自然と落ち着いた画面となり、さらに被写体の全存在を深く捉えたいと願えば、キャメラは当然“正しい位置”に据えられ、それが画面の強度へと繋がる。逆に、映像言語への批判的アプローチなしに、無防備にキャメラを被写体に向ける姿勢は、高画質キャメラがスマホにもついている現代においてあまりにも無知であり、画面の強度は、映画作家が自分なりの矜持と視点の独自さを主張し、自己を確立する上で避けられないサバイバル戦略といえるのかもしれぬ。

ロバート・フラハティ賞(グランプリ)の「HORSE MONEY」は、あらゆる言語による分類を拒む、ただただ強度の映画であった。「コロッサル・ユース」のような浮遊する劇空間は、Ventura の住むフォンタイーニャスから離れ、架空の地下プリズンへ遷る。闇に浮き上がる人の影をスタンダードサイズで切り取ってゆくというスタイルは踏襲しつつ、どこなのか、いつなのか、時代も場所も不明のまま、Ventura は自ら「19歳と3ヶ月」と言い放ち、植民地カーポヴェルデで過ごした幼少期へ記憶を遡行させる。ドキュメンタリーというカテゴライズは全く無効の領域で、コスタは孤独に舟を漕いでゆく。むき出しの映画そのもの(それを自分は「零度の画面」と呼んだ。詳しくはここに:http://www.flowerwild.net/2008/01/2008-01-29_191812.php)を突き詰める作家コスタの姿勢は常にレスペクトに値する。

「祖国—イラン零年」は、驚愕の一本。2003年米ブッシュ政権によるサダム・フセイン政権への圧力が高まってゆく中で、バグダッドに住む監督の家族を撮っただけのファミリービデオが流れる。と思いきや、爆撃が始まり、その後の世界の混乱と矛盾がばんばん突きつけられる。市民目線から由縁のない戦争に巻き込まれる不条理を、激烈な痛みとともに突きつける傑作。
同作と同じく優秀賞に輝いた「銀の水 シリア・セルフポートレート」も、一人称から進行する戦争の痛みを捉えた作品。世紀末的な廃墟の続く荒野が、アジアの西端に存在し、なお殺戮が続いていることに溜め息が出るばかり。
W杯で盛り上がる中、ブラジル格差社会の陰影をデイトレーダーたちとともに描いた「6月の取引」は、野心はすごいが映画として何かが足りない。
「Dreamcatcher」は、シカゴで売春する少女達を更正させようとする団体のリーダーを描いた作品。4歳でレイプされただの、8歳からストリートに立っている(立ちんぼということ)だの、現実が強烈すぎて、何度も殴打されるような感覚に襲われる。
山形在住の農民詩人木村迪夫を描いた「無音の叫び声」は、アプローチは凡庸であるものの、農村の原風景の賛美が、戦争批判に繋がるとまで喝破した作品。作家の執念が伝わってきた。
「HORSE MONEY」とともに最も傑出していたのは、「トトと二人の姉」(アレクサンダー・ナナウ監督)。ルーマニアのジャンキーハウスに住む3姉弟を観察的視点で寄り添った作品。劇映画なのかと思えるほど、ショットの構成に手が込んでいる。被写体が自由に動き回るドキュメンタリーの現場(なにせ相手は子どもとジャンキーだ)で速やかに映画の画面を切り取ってゆく慧眼と技術力に感動。さらに時間の省略や編集の妙によって、主人公達の感情の起伏をストーリーテリングとして構築してしまうあたりも、劇映画の見せ方とも言える。無論、ドキュメンタリーとフィクションのハイブリッド・シネマはもう長らく存在している。しかし映画が真に躍動し始めるのは、主人公の姉弟にカメラを持たせ、セルフドキュメントの時間をも映画の肉体として取り込みだした瞬間であり、ショットの精度と魅力にこれがさらに加わり、映画はミックス、シャッフルされてゆく。アプローチも、コンテンツも傑出した一本と言える。

コンペ作品「真珠とボタン」が東京で封切りされた、パトリシオ・グスマンの『チリの闘い』(1975-78)を見逃したのが、唯一悔やまれる。

しかし、作品のカテゴリーがどうであれ、画面の強度が突出する作品ばかりが映画祭で目立つようになったのは、誰でも動画を撮れるようになった時代に映画が生き残ってゆくための一つの方向性と言えるかも知れない。佐藤さんならコスタを見てどういっただろうか。ブレッソンをひたすら礼讃し研究していた彼なら、また新たな角度から斬っていたに違いない、と思いつつ僕は山形を後にした。

告知「佐藤真が提示したもの」 Lecture “In the light of Makoto Sato” (Japanese)

June 15, 2012

今週末17日、映画美学校でドキュメンタリーについての講義をやります。
お相手は葛生賢さん。僕が大学時代から師事した佐藤真さんと、その周縁のドキュメンタリー論について考えたいと思います。

映画美学校公開講座
「世界のドキュメンタリー2011上映と講義」
第6回「佐藤真が提示したもの」
6月17日(日)
13:00−上映
『クローズ・アップ』1990(100分) アッバス・キアロスタミ監督
『SELF AND OTHERS』2001(53分) 佐藤真監督

19:00−講義:舩橋淳(映画作家)、司会:葛生賢(映画批評家)

地図:http://www.eigabigakkou.com/location_detail/

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物の視点

June 25, 2011

Bibliothèqueでの吉田喜重 「小津安二郎の反映画」 (岩波書店)文庫版出版を記念してのイベントへお邪魔した。
本著はずいぶんと前に読んだのだが、今回は新版を戴いたので再読。

「東京物語」で笠知衆がない、ない、と探し回る空気枕のまなざしや、小津映画では主人公らが住む平凡な家の外観ショットが欠落しているという指摘は鋭い。特に前者は、複数のまなざし、開かれたまなざしを許容する小津映画の本質を射貫いていると思う。まだ小津映画について偉そうに語る資格などありはしないが、小津の映画言語のアナクロニスムは、どこかでwiseman 映画に通じているなぁ、と日頃から思っていて、それはこの「物の視点」があるからではなかろうか。
物に人が見返される(wisemanの「メイン州、ベルファスト」の鰯缶詰工場を想起すればいい)、人間の非中心化の視点と呼ぼうか。それは黒澤清のホラー描写の冷ややかな実存、ブレッソンの即物性にもどこかで通底してはいまいか。

そんな「物の視点」により、画面内の人物さらに画面を見つめる観客が見返されてこそ映画は開かれ、呼吸する。改めて小津映画に気付かされた形だけど、新作にどうにか導入できまいか、と考えている。

Nickの赤

September 6, 2010

いま映画の講義を都内のあるところで週一回受け持っている。
次回はいつかやらねばと思っていたが、引き延ばしにしていたハリウッド50年代。先人の書を読み、オルドリッチ、マン、レイなどの作品を見直していると、簡単に数時間は経ってしまっていた。特に来年生誕100周年であり、今頃ベネチアで遺作”We Can’t Go Home Again”がプレミアされているNicholas Ray は、見直す度に勉強になる。まずNick の作品には、恐ろしいことにbad acting がない。メソッド・アクティングの「神」リー・ストラスバーグとNYUの教師仲間として意気投合したそうだが、それは全く理解できない。なぜなら私見だがNick の演出はメソッドアクティングとは、似て非なるものだからだ。いつかそれについては論考を書いてみたいと思う。
しかし、Nick 作品を見直してゆく作業は、傑作”Bigger Than Life” で打ち止めかと思いきや、”American Friend” に飛び火。Bruno Ganzが寝ているシーツや、カーテンが悉く真っ赤だったのは、Nick の赤だったのか、と今さら驚嘆した。

True To Yourself

Learning is finding out what you already know.
Doing is demonstrating that you know it.
Teaching is reminding others that they know it just as well as you.
We are all learners, doers, teachers.
Your only obligation in any lifetime is to be true to yourself.
Nicholas Ray


Write-ups on “Deep in the Valley” at Berlin International Film Festival

February 5, 2009

berlinfilmfestival2

The Berinale 2009 has ignited today!

Christoph Terhechte, programme director of Forum section, talks about “Deep in the Valley” in his interview.

INTERVIEWER

Another theme this year seems to be the relationship between the generations and the question of preserving tradition.

CHRISTOPH

“Deep in the Valley by Funahashi Atsushi is a good example of that. The generational conflict in this film plays out in Yanaka, a neighbourhood in northeastern Tokyo where the old spirit of the city can still be felt. The filmmaker uses memories of a five-story wooden pagoda that burnt to the ground there in 1957 as a kind of hook for a cinematic engagement with the locals’ sense of tradition. What’s interesting about this film is that it is a documentary that also includes scripted elements. One of the plot lines is set in the present and tells the story of a film club looking for 8mm footage of the fire. A second plot line is based on a Japanese novel and tells the story of the pagoda’s construction. A young architect had to break with his teacher in order to build what was at the time a new kind of pagoda, which then went on to become a masterpiece of Japanese architecture. So of all people it is this young man who committed the impossible act of knocking his master off the throne that the older generation admires today as one of the great founders of tradition. This relativizes the conflict between the generations very nicely, I think.”

Here’s the full interview.

http://www.berlinale.de/en/das_festival/festivalprofil/berlinale_themen/Forum_2009.html

Also, here’s another write-up on the festival’s webstie.

Saturday, January 31, 2009

16 familiar faces at the Forum 2009

At the Forum 2009, filmgoers won’t just have the chance to discover a wealth of new names and cinematic signatures. A whole range of filmmakers who have already shown one or more films at previous editions of the Forum will also be making a welcome return.

Japanese director Soda Kazuhiro is, for example, just one of the 16 directors back with us this year; his debut Campaign was shown at the Forum in 2007. His new film Mental (Seishin) is an equally original and uncompromising filmic observation. His compatriot Funahashi Atsushi should also still be fresh in audience’s memories: his road movie Big River was shown at the Forum in 2006; his new film Deep in the Valley is a melancholy story set in Tokyo with a strong documentary leaning.

Here’s the full article.

“Deep in the Valley” will have the world premiere at Berlinale! ベルリン国際映画祭でワールドプレミア!

December 24, 2008

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I am thrilled to announce that Deep in the Valley, my third feature film, will be world-premiered at Forum section of Berlin International Film Festival. The film was produced as a thesis project of my film-acting class at ENBU Seminar, an acting school in Tokyo. I will attend the screenings with my actors and staff members between February 5th and 15th, 2009. It will be shown at the same beautiful theater, the Arsenal, where Big River, my 2nd feature, was premiered in 2006.

<速報>
東京都の演劇専門学校ENBUゼミナールでの私の授業が発展し、実習作品として撮影された「Deep in the Valley」がベルリン国際映画祭フォーラム部門で上映されることとなりました。2006年に「Big River」が上映されたのと同じ部門で、3年ぶりの凱旋となります。私と役者、スタッフ一同、2月5日〜15日にベルリンへ乗り込みます!