堀江氏発言「生活保護世帯への進学支援「無駄遣い」」は間違っている

今朝の朝日新聞/日刊スポーツ: 堀江貴文氏、生活保護世帯への進学支援「無駄遣い」
http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/Cfettp01712125414.html

この堀江氏の発言、2つの意味で間違っている。


「優秀な学生には返さなくて良い本当の奨学金がすでに支払われる枠組みがある」というが、給付型の奨学金は、ごく一部。しかも授業料、生活費を全部カバーしてくれるわけではない。日本の奨学金は、殆どが貸与型。しかもこれも全部カバーしてくれず半額以下が殆ど。
だから、低所得で優秀であっても大学など高等教育が保証されているとは全く言えないのだ。

大事な認識は、日本の奨学金が先進国の中でも圧倒的に最低レベルだということ。

欧州に比べると、天と地の違いである。
ドイツなどは外国からの移民も含め、授業料はなし。
アメリカは学費はバカ高いが、学生全体の約70%が奨学金を受けており(日本は10%以下!)、州政府の公的な給付型と、スタンドフォード奨学金の無利子貸与型と、それでも足りない学生のためのパーキンス奨学金(利子あり貸与型)の三段階を併用でき、どんなに低所得でも学費&生活費をカバーしている。


「税金で高等教育をあまり役に立たない人に施すのは間違ってる」
→これは、教育の機会均等の理念を真っ向から否定する、エリート主義の選民思想で、低所得層の個人だけでなく、長い目でみると社会と国そのものを荒廃させる。
バカは教育しなくていい。早いうちから篩(ふるい)にかけてしかるべき所で働かせるのが社会のため、というのは、いかにも前近代的な二元論。

教育の効果は個人に帰属するのではなく、国家・社会に還元される。

そんな理念を掲げて、社会を形作ってゆくべきなのだ。
(原発ナシの生き方を選ぶ、という理念を掲げて、脱原発したドイツは、まさしく日本の逆で、理念をまず大切にする)

これは日本の教育システム=政治の根本的問題であり、堀江氏の非では全くないが、そんな理念意識も希薄で、機会均等が全く整わない日本の狭い社会のなかで、弱いものを蹴落とすセコい選民思想は、さらに社会をやせ細らせてゆくのだ。

だから、「バカとエリート」の選別・最適化という一見正しいかに聞こえる考えは、間違っている。

まずは、高等教育にも機会均等を成し遂げるべきであり、アメリカの高額授業料&奨学金フル補充型に向かいつつある現状よりは、ドイツ型の無償型に行くべきだと、僕は思っている。

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福島県知事選挙雑感 10.27.2014

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昨日投開票された福島県知事選挙は、大方の予想通り内堀雅雄氏の圧勝だった。
熊坂氏、井戸川氏の奮闘も虚しく大差が付けられたのは、福島県民が両氏の政策と内堀氏の政策を精査して内堀氏を選んだというよりも、最初から内堀氏しかいないと踏んでいた層が圧倒的に多かったということを示している。

選挙期間中、私も内堀、熊坂、井戸川、三氏の選挙戦の撮影を行った。福島、郡山などの人口集中地帯の都市部での街頭演説から、山間部の町や村での遊説まで。そこで見たのは、自公民、主要政党が相乗りで支持した内堀氏の選挙体制の盤石さだった。人数も数十人体制で、自民党の有力議員などの地元などすでに固まった派閥の元に落下傘的に降り立ち、その自民議員が内堀氏の手を取り、その地域一体で内堀氏を押すぞ!と一体感を演出する。例えば、郡山の自民有力議員・柳沼純子氏の事務所前に地元の人々数百人を集め、まず柳沼氏の演説の後、内堀氏が紹介され、登場、参加者全員に丁寧かつスピーディーに握手をして廻る姿には圧倒された。両脇に、握手の誘導係、少し離れてタイムキーパー、警備員、地元有力者に別個で挨拶する幹部など、スタッフワークで一挙に全員の意志統一を図る。所要時間約15分。最後は万歳三唱で送り出す。旧態依然だが、圧倒的な集客力、ブレインウォッシュ力。選挙隊が立ち去った後も、私は残って地元のある女性(60代)に「なぜ内堀さんを支持しようとおもったんですか」と尋ねてみた。「わかんね。けど、他に誰もいないでしょ。ここの皆があの人っていうからね」とその女性は言った。他に数人その場にいた人々に話を聞いたが、やはり内堀氏を積極的に押すというよりは、自民支持層の地元が押す人だから、という理由が大半だった。「他の候補者はいかがですか」と尋ねると、ある男性は「どこの誰かわかんない。みな小粒だ」と相手にしていないようだった。さらに、この近辺のJAも内堀さんを全体で押すことを決めたということだった。福島県産の食物を「食べて応援!」という内堀氏は、県中の農協関連から支持を受けていた。このようないわゆる組織票が、今回の圧勝劇を生み出したといっても過言ではない。
 熊坂氏は、反原発の諸氏から大きく擁護され、医師であり、福島県出身であり、かつ市長を三期続けた実績もあり、「人ウケ」は安定していた。町場の街宣でも、内堀氏にまさるとも劣らない大人数でビラをまき、力を入れていたのは分かったが、内堀氏のような落下傘爆撃型遊説とは、効率が違った。実際、殆ど人が集まらないところで演説している箇所もあった。
 井戸川氏は、さらに規模が小さかった。前双葉町長であり、美味しんぼ問題などで一応顔は知れ渡っていたのだが、選対は全てボランティア。政党の支持も受けておらず、自民の地盤で超安定の内堀氏はもとより、共産・革新のバックアップを受けた熊坂氏ともマンパワーで大きく水をあけられていた。県中を廻ると、選挙公報板に必ず内堀、熊坂両氏のポスターは張られていたのに対し、井戸川氏のポスターが見えない箇所が目立った。政策の議論・選択を行う以前に、選挙戦の声が届いていないところが圧倒的に多いのが現状だった。
 私は、ここに日本の戦後展開されてきた、自民党主導の選挙体制の壁があると思う。内堀氏約49万票、熊坂氏約13万票、井戸川氏約3万票という圧倒的な開きは、其々の選挙体制で決してしまっている。つまり、公示日前の体制作りでほぼ決まってしまうのである。主権を持つ国民が主体的に投票するというよりも、システムによって主体が奪われ、無盲目に他の皆と同じ人に投票をするように誘導されている人口がとてつもなく多いのである。これは組織票、とひとくくりにしてよい問題ではない。日本人の個人の主体性がかぎりなく希薄になっているのである。
 政策について話をすれば、三氏が福島県内の原発10基全廃炉(県内脱原発)、再生可能エネルギー拠点を作る、という点が共通していたので、その時点で原発問題は争点でなくなってしまった。被ばく対策に関しては、子どもを疎開・保養させるなど、井戸川氏が具体策を出していたが、県内で撮影をしながら感じたのは、被ばく問題を喫緊の問題に感じていない人の多さだった。「もちろん被ばくはしたくないけど、今の線量のままなら、被爆者手帳とか作ってちゃんと検査だけやってくれれば。」という旨の意見がよく聞かれた。つまり、事故から3年半以上も暮らし続けている県民にとって、今の場所に住み続けることをとっくの昔に選んでいるわけであり、これからの暮らしがどうなるかを示して欲しい、という方が大きいのだった。熊坂氏も「国に直言、県政を刷新!」と打ち出し、福島県だけでなく全国の原発を即廃炉を求めるとしたが、それは福島県人にとり、正直ピンとこない話だし、打ち出したメイン政策<原発被害対策の総見直し(避難者及び帰還者の生活再建支援など)>は、素晴らしい具体策が多く用意されているのだが、大まかな方向性は「避難地域を復興させ県全体を元気にする」という内堀氏の政策と一致してしまい、何が違うのか、という印象を与えてしまった。それは、内堀陣営の周到な戦略がある。同氏の政策を述べたホームページを参照いただきたいが、全く盤石(かつ玉虫色)で間違いのない政策を、具体策のないまま、ざっくりと提示している。それは、詳細を読まない人間にとり、「まぁいいんじゃないの」と思わせるには充分なのだ。
 細かな政策を精査し、投票行動に結びつける、ということ自体が、日本の選挙文化に根付いていないという思想的欠陥が、長いものに巻かれるしかない、小粒に票を入れても仕方ないというマインドを生む温床となっている。本当に残念ながら。
 争点がぼやっとしたまま、一強多弱の構造で選挙が進んでしまう時、旧来の保守・革新という政治哲学すら消え失せ、継続か刷新か、change かno change かの抽象的な二者択一のみが残る。そうなったときに今の日本の群集心理がどう働くか、今回の選挙が如実に示した。投票率は、過去最低だった前回につづく45.85%。日本人はデモクラシーを捨てようとしているのだろうか。組織票から遠く離れて、自分の意見を主体的に投票行動に結びつけてゆく、カルチャーを醸成してゆかないと、この日本は変わらないのではないか、と私は感じた。 
 文句・批判を述べ立てるのは、容易である。教育やアート、言論形成のイベントやディベート大会など、個人が出来ることもたくさんあるだろう。私自身も出来ることをやっていきたいと身につまされる経験であった。

とりあえずの安心・安全を求める気持ちを、もう一度見直そう 〜(続)圧倒的な危機感について〜

昨日アップした拙文「今は平時でなく、戦時になりつつある〜圧倒的な危機感という視点〜」。リツイート、シェアあわせて6000人以上の方が賛同してくれています。ありがとうございます。

しかし、です。

今朝、東京新聞をみてびっくりしました。「都知事選世論調査 脱原発票割れる 舛添・細川・宇都宮氏に」という記事です。

しばらく考えて、なるほどと思いました。舛添氏の原発政策「原発依存は減らす。再稼働は慎重判断」が、実は多くの層をカバーしているのではないでしょうか。

「原発は国政の問題だし、再稼働すれば電気は送られてくるかもしれないけど、原発は東京都内にはない。だから都政が関与する筋合いはあまりないのでは。」

という「なんとなく」の空気です。

それが、

「まぁ急がなくとも少しずつ原発依存を減らせば良い。急にゼロにすれば、経済やいろんなところに支障が出る」

という安心・安全マインドを生み、

「原発よりも大事な福祉、医療、景気対策という都民の生活に直結した問題をしっかりやってくれる人の方がいい。原発、原発と叫んでいるのは、なんかコワい。行き過ぎじゃないか」

「舛添氏に入れておいて問題はないだろう」

となる。

これが、問題なのです!!!

私たちの心の中にある、安定を求める欲求が、”悪”を生むときがある。ヒロシマ、ナガサキの悲劇を経験した日本人は

「二度と核を悪用させてはならない。そのために平和利用をしよう!」

として、1950〜60年代に原発をアメリカから輸入しました。原子力は未来のエネルギーだ、という巨大キャンペーンに私たちは乗っかってしまった。世界平和のために、そして資源のない日本の将来の安定のために、原子力はうってつけだ、と思ったのです。

善意の束が、”悪”を生んでしまったのです。

そして、今回、福島の事故がありました。今後数万年も管理しなければいけない核のゴミも出ました。自然や食物や飲料が放射性物質で汚染され、今もストップできていません。いまだ最終処分場も決められていません。今から生まれてくる子供達に巨大な負の財産を残すことになってしまった。

政権が原発再稼働をしようとするのは、電力会社の経営問題からであり、利権を維持しようとする企業の集まり(原子力ムラ)が政治と行政に働きかけているからです。

福島の事故で我々は思い知ったわけです。安全・安心を求める気持ちが、悪に繋がってしまうということを。

いま安倍政権は、ゆっくりゆっくりと戦争のできる国へと向かっています。戦争は、緊張状態が高まったとき、ほんの些細な、ローカルな武力衝突から起きます。

安倍政権は、韓国と中国との対立を煽り、国境問題や歴史認識で挑発し、同時に軍備、徴兵制の充実に注力しています。

舛添氏を信任するということは、安倍政権を信任するということです。現状維持を認めれば、この政権は核(原発)を動かし、静かに静かに戦争に向かってゆきます。

安全・安心を求める気持ちをもう一度見直し、本当に舛添氏でいいのか、吟味してください。そして、その危機感を友人や家族と共有してください。

もう一度言います。

とりあえずの安定を求める気持ちが、「悪」となることがあるのです。

変革を起こしましょう。

【2013~4年 個人と社会の関わり合いについて回顧 その2】

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(前日のつづき)

ニューヨーク、ウェスト・ヴィレッッジにあるFilm Forumという映画館で、「フタバから遠く離れて(英題NUCLEAR NATION)」が上映された。この小屋は、ヒッチコックやフィルム・ノワール、スクリューボールコメディの特集など映画の伝道をいつもニュープリントで安価に上映してくれる理想的なシネマテークで、僕が学生の頃足繁く通った場所だった。そこで自作が初めて上映されるのは感慨深いものがあったのだが、上映後のQ&Aは予想通り福島の現状について本質的な議論が飛び交う場となり、耳の痛い批判も多くあがった。

まずは、双葉町をはじめ、原発事故の避難民がなぜこうも放置され続けるのか。
国際的な被ばく許容量1mSvに対し、なぜ日本政府は20mSvで良しとするのか。それは国民の命よりも賠償の最小化を優先しているのではないか、等々ごもっともな批判を受けた。さらには、再稼働を進める現政権自民党は、東電救済、エネルギー権益体制の安定維持を優先させているからだと僕が説明すると、「現政権を国民の大半がいまだ支持するのはおそらく経済が上手くいっているからで、福島のことは日本人の大半は無関心なのだろう。アメリカでも原発の危険性は度々議論になるが、時間がたてば忘却されるだけ。」「日本が電力自由化していないと聞いて驚いた。『べき論』で脱原発は不可能。311以前のドイツのように一つの政権で奇跡的に脱原発を打ち出したとしても、政権交代でも起こればあっけなく元に戻されるからだ。電力を自由化し、原発と電力会社を市場経済に晒すべき。そうすれば元々、単価の高い原子力は消えてゆくはず」など鋭利な指摘も多かった。

おおむね日本の変わらない現状にフラストレーションと疑問を掲げる観客が多かった。首相がしょっちゅう変わり、政権交代も起きた311以後の日本であるが、実はエネルギー産業は旧態依然として変わらず、再稼働に猛進している不思議さ。「フタバから遠く離れて」の中にも、全原協(全国原子力発電所所在地市町村協議会、2011年度)で全国の首長、各電力会社の代表、関連省庁の幹部が出席している前で、冒頭挨拶だけで海江田経産大臣、細野原子力担当相が退席する場面があるが、「WHY ??」という声が多く聞かれた。当事者たちが本質的な議論を避け続ける、この不思議さ。ニッポンという国は、理屈では納得できない不思議さに包まれている、という印象だ。

実際、麻生太郎副総理のナチス発言でみられるように、騒ぎ立てることなく静かに、誰も気づかないうちに法案が通っていたり、憲法が改正されたりするのが理想とする政権側の政治家も少なくない。本質的な議論を回避して、同じ党派の中で内輪の意見調整を行い、外には議論を開かないまま、本会議で強行採決を図る、それが今の安倍政権の姿だ。

誰も知らぬまま見えない形で、問題を隔離し、秘密裏で進めること。
それが今年、特定秘密保護法という形で一つの結実を見た。今後、この秘密裏作戦で、96条改正、9条改正、国防軍設立にまで向かおうとするに違いない。

●対外的に統括を示せない国・ニッポン

外国から見て、「不思議な国ニッポン」は今始まったことではない。

大戦後、ポツダム宣言を受け入れ、東京裁判、サンフランシスコ講話条約を受け入れたものの、未だに侵略戦争と認めない政治家が後を絶たず、それを許容してしまう国家がある。ドイツは、国際社会に公式な謝罪・賠償を行っているのに対し、日本はどちらも未だない。正確に言えば、村山談話が侵略戦争を認め、1965年日韓基本条約により賠償は支払われたとの解釈が存在するが、「正式な賠償、正式な謝罪」を認めない日本政府の在り方がいつも問題になっている。例えば日韓基本条約で、総額8億ドル支払われたと言われるが、「戦争賠償金」を求めた韓国の要求を拒否し、あくまで経済協力金として支払い、さらに「財産さらに請求権に関する問題の解決」として、侵略・従軍慰安婦・強制労働者に関する請求をいっさいがっさい「解決」としてしまった。しかし、
実際にはその「経済協力金」が韓国側で元慰安婦個人に渡っていないなど問題があり、未だに火種はくすぶり続けている。

そして、慰安婦・強制労働者は韓国に限らず、中国、東南アジア、オーストラリアにまで広がっており、それについての謝罪は、村山談話のみでは到底国際社会の理解を得るには至っておらず、はっきりした形=賠償などのアクションが求められている。

明確に国際社会が分かる形でプレゼンされた謝罪・賠償がなされないまま、首相が靖国に参拝する国・JAPAN。それは、こっぴどく叱られて、「ごめんなさい」と反省を口にはするものの、本音は全く反省していない子供のように、外国には映るのだと思う。安倍首相は靖国参拝のあと、こう語った。

「靖国参拝については、戦犯を崇拝するものだと批判する人がいますが、私が安倍政権の発足した今日この日に参拝したのは、御英霊に、政権一年の歩みと、二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことの無い時代を創るとの決意を、お伝えするためです。」(全文はhttp://sankei.jp.msn.com/politics/news/131226/plc13122612220016-n1.htm
を参照)

日本の政治家に限らず、古今東西、全体主義・ファシズムを煽動する政治家に共通してみられるのが、このemotional (感情的な)とrational (論理的な)要点を一緒くたにする語り口。「二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことの無い時代を創る」という思い=感情論と、「戦犯を崇拝する」ことの非(日本が東京裁判を受け入れ、国際社会で認可されたA級戦犯=悪という論理を侵すこと)をないまぜにしても、何も語ったことにならない。なぜA級戦犯を合祀する宗教施設を参拝するのか、という疑問にロジカルに答えていないからだ。その答えは二択しかない。A級戦犯=悪を受け入れるのか、受け入れないのか、である。

安倍首相は、そのどちらでもない答えがある、とどうやら思っているようである。あまり考えたくないが、安倍首相の意を汲んでみると「戦犯とされてしまったが、英霊のみなさんは国のためによくやってくれた」と考えているのではなかろうか。

これはあまりにも幼すぎる考え方だ。
ロジカルに考えれば、A級戦犯を肯定している、過去を反省していない、と取られるのが普通である。であるから、参拝したいのであれば、(戦犯の祭られていない)千鳥ヶ淵の戦没者墓苑を選ぶのが、当然の感覚だと思う。(ケリー国務長官とヘーゲル国防長官が参拝したのは、安倍政権へのそんなメッセージだと思うのだが。)

靖国参拝については、このA級戦犯の問題とさらに政教分離に反する問題があるが、ここでは追求しない。(多くの論客が既にされていますので^^)それよりも、<戦後の統括が国際的な場でなされていない> ことをここで強調したいのだ。要するに、対外的なプレゼン・共通理解構築は大の苦手で、見えないように秘密裏で事を進めるのが大好きの国、そんな不思議な印象が、日本に定着しつつある。

●責任者が見えないこと

戦後の責任問題が曖昧なままであるように、今継続している福島原発事故についても、ぼんやりとした無責任状態が続いている。

昨年9月、福島原発告訴団が刑事告訴した勝俣恒久東電元会長、班目春樹原子力安全委員会元委員長、山下俊一福島県放射線健康リスク管理アドバイザーなど33名は不起訴処分となった。誰か特定の人物に、「全ての責任がある」と訴追することは出来ないからだという。

また昨年4月、福島県郡山市の小中学生14人が疎開を求めたふくしま集団疎開裁判は、仙台高裁が原告の申し立てを却下した。理由は、(被ばくによる)悪影響がいますぐに出るという確証がない、自主避難の道はあるのだからわざわざ郡山市が避難させる必要性がない、とのこと。郡山市の責任を認めない判決だった。

二つの判決に共通するのは、責任の所在をはっきりピンポイント化できない状況だ。

我々は、この見えない責任者に、どのように対峙してゆけばよいのだろうか。

(明日につづく)

弱者の味方という、強い「背骨」に貫かれた宇都宮弁護士こそ、いま東京に必要なリーダーだ。

今日告示された東京都知事選の候補者・宇都宮けんじさん。

実は、いろんな折々で僕が感動を覚えた出来事の背後にいた方でした。

僕は、2010年NHKで弁護士の就職難について番組を作ったとき、過払い金請求や多重債務者救済のため働く弁護士たちに出逢いました。借金まみれの人がクライアントなのだから、労多くして実入りが少ない、そんな仕事を懸命になって打ち込む弁護士は、まさしく社会正義のため、弱者のため働く仕事で、感心しました。政府に働きかけ、新貸金業法という法律改正までやり遂げた、そこには日弁連会長の宇都宮健児氏を中心とする運動があったと知りました。

そのころ、宮部みゆきさんの小説「火車」を読みました。ささいなクレジットカードのキャッシングからどんどん借金の泥沼にはまり、身を崩してしまう、ある一人の女性の人生を描くことで、日本社会の暗部を照射してしまう傑作で感動しました。そしてあとがきで、そこに登場した溝口弁護士は、宇都宮健児弁護士がモデルとなった、ということを知りました。あの「サラ金弁護士」か!小説の感動とともに、宇都宮弁護士への興味はさらに膨れあがっていきました。

世の中、弱者はどうしても存在します。

僕が撮影を続ける福島県双葉町の避難所でも、賠償の遅れにより自立できず、まだ高校の教室で暮らしているのは、自立したくても自立できない生活弱者(お年寄り、身体障害者、生活保護受給者)の方が多いです。
僕は何もできないけど、撮影を続けていると、ふつふつと怒りが湧いてきます。
なぜこの人達は、国から無視され続けているのだろうか、と。

同時に、日々忙しく働いていると、社会の隅々に目がいかない自分に気付きます。
自分の手が届かないところで、大きな社会のうねりにより弱者に追いやられた人たち。
それを殆ど無視している自分がいつも歯痒いです。

だから、弱者の味方となることをずっと本業とされてきた方には敬意を抱きます。

この社会を底から支え、少しでも公平で自由な世の中を実現しようとする人。

「必ず人生はやり直せる」という信念で、多重債務者や原発労働者のために声を上げ、一人ひとりの救済から、法システムの改訂まで大きな視点で弱者救済をやり続けてきた宇都宮さん。

彼ほど、一本、背骨が通っている人がいるでしょうか。

人間は、背骨が大切です。
その人が生きてきた方向性、意志の力が、どこに向かっているかということです。

片手間で政治を志す人々を、このごろ散見します。

僕らは、パートタイムとフルタイムの政治家を見分ける目を磨いていかなければいけません。

パートタイムだと今は調子のいいことをいっていても、過去の蓄積も無ければ未来のビジョンもない。
長続きしません。だから、僕はタレント候補も刺客も要らない、と考えます。

社会のために奉仕する、「背骨」の通った人物こそ、政治に必要だと思います。

弱者のいない社会を実現しようとする宇都宮さんを、だからこそ支持したい。

いま日本は領土問題などで他国を挑発している場合ではありません。
福島、原発、貧困、介護・・・多くの問題を内側に抱えています。

足元を見つめ、しっかりと地歩を固める時期にあると思います。

「東京都は、福島原発で発電した最大の消費地。原発事故の被害者のみなさんを全力を挙げて支援する、救済する大きな責任がある」と仰る考えは、心から同意します。

最低賃金制度改正、非正規社員救済、健康保険料値下げ(国保漏れゼロを目指す)、保育所増設、都負担の介護制度、そして東京から脱原発=新エネルギー会社創設、友好都市東京からの非戦。

すべて、一つの背骨に貫かれていると思います。
それは、社会の隅っこに追いやられる人々を救う、という弁護士の魂です。

弱者の味方、宇都宮さんを本気で応援したいと思います。

舩橋淳(映画監督)

反原発デモ  4/15 & 4/16

現在進行中のプロジェクトのため、2日間で反原発デモ3つに参加した。
東電前アクション、「脱原発社会を作ろう!」デモ「野菜にも一言いわせて!さよなら原発デモ!!」)先が見えない福島第一原発の状況の下、どう考えても人間(日本人でなく)には扱い切れないことが明白になった原子力について、反対!の大きな叫びが東京の空に響いた。集まった人は、自分は当然声を上げるべきだという誠実な意志の持ち主ばかりだったと思う。が、残念なことにまだ集まる人数が少ない。公式発表があった3つ目(「野菜にも一言いわせて!」)は1500人だった。New York で参加した2003年のイラク戦争反対デモは30〜40万人が集まった。まだ宣伝がうまく拡散していないということもあるだろうけど、無関心層・諦め層がいるのではないだろうか。渋谷の公園通りをデモが行進したときでも、物珍しそうに見ているだけの人間がどんなに多かったことか。その温度差が冷ややかに身にしみた。しかし楽観できるのは、継続して声を張り上げ、siteやtwitterを連動させてもっと拡大させてゆこう!という熱意を持つ人が多くいたこと。東電責任者への個人攻撃、管下ろし・小沢擁立、浜岡原発廃止、農家への賠償制度早期成立など、各々主義主張、政治的立場も微妙に違う人が集まって、どう束ねてゆくのか、という課題は依然ついて回るが、それでも全員が一致して反原発の声を上げるために集まることは本当に大事だと思う。

最後に、以下のニュース。
原発推進学者の唯一の責任の取り方は、今後、反原発陣営の学者として働くことだ。
バッシングだけでなく、彼らにそれを自覚させ行動させなければいけないと思う。そのための責任追及でしょ。

原発推進学者が次々懺悔 「国民に深く陳謝する」

終戦記念日を前に思う

TBS終戦ドラマスペシャル「歸國」(脚本倉本聰)をいま見た。戦後高度経済成長&デフレ後の日本人は豊かだけど、先行き不安で信念を見失っている。そんな今、戦前・戦中の日本人が持っていた清貧の精神性(「貧幸」という造語が登場!)に立ち返ろう、という論理。「ゲゲゲの女房」にも通じる時代の流れだと思った。

この過去への内省・郷愁のブームは、日本経済が立ち直らない限り、しばらく続くのだろうか。