「雨にゆれる女」   

September 29, 2016

B9YAfMwCEAATTaw.jpg

半野喜弘 監督  2016

陰鬱な湿り気に満ち満ちた廃屋の鉄パイプ。
人がきっと血を流すに違いないと思える曇り空や、荒々しい冬の海の表情。
もはやこの世で誰の助けも借りずに生きるしかないと覚悟している男が喰うメシの音。
“映画の光”と“映画の音”を正しく捉え、“映画の人物”を正しく画面に収める感性は卓越している。
この映画的血脈の“正しさ”を、惜しげもなく画面の隅々に漲らせる半野善弘の処女作は、その予算規模に反して、贅沢な一本に仕上がってしまった。素晴らしい。

「ダゲレオタイプの女」(黒沢清 2016)

August 16, 2016

maxresdefault.jpg
黒沢清監督初のフランス語作品「ダゲレオタイプの女」拝見。

初期写真技術の現像液の水銀と毒薬に身体を侵された人間たちが、半死半生の世界を漂い続ける。

フィルムの銀盤に身を委ねることは、死への彷徨なのか、永遠の生なのか。

人物たちが生きているのか、死んでいるのか、という基本的な問いだけで、胃が引きちぎれそうなサスペンスを演出してみせる黒沢さんの手腕に脱帽。

自分の理解できない言語のドラマを演出することによる、画面の乱れが皆無であることは、本当に信じ難い。

傑作!

「みな殺しの霊歌」 

August 15, 2016

tumblr_ma6hbgFU9s1r1d5rwo1_500.jpg  
監督・加藤泰 1968  90分
出演:佐藤允 倍賞千恵子

激しすぎる。
こんな激しい映画はみたことない。

一瞬一瞬が熱湯のような映画。
加藤泰の血しぶきが全てのフレームに詰め込まれた激情の映画である。

主人公たちは常に、一点を凝視してぷるぷる震えているか、
泣き叫んでいるか、のどちらかで、
怒り狂うものと、泣き叫ぶものと、茫然自失のものたちだけで画面が占められている。

なぜだろう、いつも水が「ガッーーーーーー!」と出しっ放し全開で、汗が吹き出た暑苦しい男たちが無意味にすぐそこの建設現場で働いており、それが殺人現場に「なぜか!」隣接している。それら無意味さが正当化されるのこそが、映画であると気づかされる。

主人公、時効寸前の逃亡殺人犯(佐藤允)が心を通わす女・はるちゃん(倍賞千恵子)は場末の中華屋で働いているのだが、閉店後に入ってきた殺し屋は、「もう火を消しちゃった。店を閉じるんだよ。簡単なもんだったら・・・」と言ってるのに、わざわざ「かつ丼」を注文し、なぜかその要望は受け入れられる。「なんで?」の連続なのに、その画面があまりにも暑苦しい密度に満ちているため、見る者は納得する。

 そう、これは細部の突出の映画。さんざん見せられる有閑マダムたちのマンションも、結局全体像はわからず、闇の部屋という印象だけが残る。

 中華屋のはるちゃんと殺し屋がしんみり話す原っぱなんか、いったいどこなのか? 荒川の土手が好きだといっていたから、荒川の土手なのだろうか。
しかし、このシーン、最初は「なぜか!」佐藤の指に刺さったとげをはるちゃんが針で抜いてやり、「ぎゅっ」と出血した指をすってやるカットから始まり(意味不明だが、激しい顔のアップの応酬!!)、ポンと引いたロングショットでかろうじて原っぱ(荒野か?と思えてしまう)だとわかり、ぼんやりと薄くなったはるちゃんの横顔がなんとも美しく、記憶から消し難い。そして、また違った角度からの引きのショットへと繋がり、遠くから強烈な夕陽が二人に襲いかかる。おもむろに立ち上がった二人の間には「なぜか!」高低差があり、高いところから飛び降りるようにして、はるちゃんにダイレクトに抱きつく殺し屋がいる。その落下運動の激しさ!!
こんな細部、忘れろといっても忘れられないような演出が盛りたくさんなのだ!それらは「なぜか!」という無意味さを軽々と凌駕してゆく。

物語は、うぶなクリーニング屋の青年を輪姦した新宿クラブのマダムたち5人を、「おまえたちは寄ってたかって、一番きれいなものをめちゃくちゃに汚しやがった!そんなことがまかり通るのか!?そんなことじゃ、神も仏もねぇじゃねえか?!」と逃亡殺人犯(佐藤)が怒りの鉄拳で、一人ずつマダムを殺してゆくというもの。だが、よくよく考えると、そんなんで5人も虐殺するのか、と思ってしまう(その意見は刑事の口からも漏れており、映画中もちゃんとフォローはされている。脚本構成の秀逸さ)のだが、極端に思い詰めてしまう正義感の強い人間がえてして社会ののけ者にされてしまう、という加藤泰が込めたアイロニーが熱く画面にみなぎっていた。

映画は、「どんな理由でも殺人は罪なのか?」ときわどい問いを熱く投げかける。

殺人に走る者は、わかりやすい悪人などごく少数で、実は繊細で極端に思い詰めてしまう正義の人間が、不器用に突っ走ってしまった悲劇ばかりなのではないか。

社会で弱者、悪人とレッテルを張られる人間を擁護する熱い思いが、加藤泰の根底に流れるもの。

その熱量に僕らは圧倒され、熱狂し、共感する。

Hee <火> 桃井かおり監督

July 20, 2016

Hee.jpg

浜辺らしき強い日差しの道端で、ばしゃばしゃと水で素足を洗うワンピースの女。

男と別れ、家庭も崩壊し、その中途で人を一人や二人、殺しているのかもしれぬ。

ことの次第は、精神科医との対話の中で、少しずつ明らかになってゆくだろう。

狂っているのは、この役の女か、それとも桃井かおり自身なのか。

挿入される女のイラストが流麗で美しく、それが炎で燃えて消えてゆく描写もなんともエロチックだ。

それも桃井自身の手により描かれたという。  

新たに生まれつつある映画作家・桃井かおり自身の肉体がスクリーンにぶつけられている。

自身が狂いつつあるドキュメントと、自分のもつエロさを最大限作品に取り込もうという演出力。

脚本もほとんど1日で仕上げてしまったという桃井は、多くの刺激を体で受けとめ、一挙に吐き出す才能に長けている。

一筆書きの女は、熱く太く生きる、その鮮血の脈動を見るものにぶつけてくる。

そんな作品である。

http://hee-movie.com/

IMG_6310.JPG
3月 香港国際映画祭にて

寄稿「どん引きしている人へ――最低限の選挙マニュアル」 

July 9, 2016

ポリタスへ拙文を寄稿しました。

「どん引きしている人へ――最低限の選挙マニュアル」 舩橋淳(映画監督)
http://politas.jp/features/10/article/516

【書評】「日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか」矢部宏治

June 20, 2016

「無期限に、どんな兵器を持ち込んでいるのか日本政府へ知らせる義務もなく、日本防衛以外の他の目的でじゃんじゃん使える」基地を、どうしてアメリカが日本国内に持つことが可能になったのか?

戦後の米軍占領下にさかのぼり、そこから二つの安保条約、昨年の新安保法制まで、歴史と国際政治学を縦糸と横糸に編み込み解き明かした。

戦後米軍占領下マッカーサーの最初の構想は、日本は非武装中立となり、沖縄を含む太平洋の島々に配備する国連軍に守られるというものだった。

それが1950年朝鮮戦争が起こり、占領軍が日本から朝鮮へ出撃してゆく最中(「日本の4つの島は巨大な補給倉庫になった」)、サンフランシスコ平和条約で日本が独立したことで、歯車が狂いだした。

平和条約と同時に結ばれた旧安保条約の追加文書に、
「継続中の朝鮮戦争については、国連軍への日本を通しての軍事支援を今まで通り続ける(要約)」

とあった。国連軍は、もちろん米軍を意味し、つまり日本が独立後も米軍への軍事支援を行い続けるという素地がここで出来上がってしまった。

そして、何度かの修正の過程で、

朝鮮戦争での国連軍への軍事支援 
   → 朝鮮以外の場所でも自由に戦争する米軍への支援

(駐留する米軍は)外部からの武力攻撃に対する日本の防衛だけを目的とする 
    →極東における安全保障、ならびに日本防衛  (意訳)

へと書き変えられていった。

つまり、「極東における安全保障」のためなら、米軍は日本から出撃して世界のどこでも戦争ができるということにされた。

最初の段階から比べると、まさに「詐欺に遭った」歴史。

そして、これに様々な密約が追加され、60年の安保改定、日米地位協定という不平等条約になった。

占領下における戦時体制(戦争協力体制)をずるずると引っ張られ,うまいこと言って、使われているのが、今の日本の米軍基地であり、殆ど隷従的な日米関係なのである。

ここまで読むと、げんなりしてしまうのだが、筆者はこれをふまえて、日本はどうやって、日米を対等な関係に持ってゆけるのか、誠実で深みあるリサーチをふまえて提言をしている。

<二つの日本独立モデル>
 フィリピン・モデル ——米軍撤退条項と加憲型
 ドイツ・モデル ——朝鮮半島統一による朝鮮国連軍の消滅、そして米軍撤退

これは、リアルにあり得るモデルケースとして説得力がある。

 こういった提言を通して筆者が最も強く主張しているのは、戦後占領下からずるずると続いてきた、国連軍という名の米軍に日本を自由に使わせる不平等条約(「敗北を抱きしめて」のジョン・ダワー氏のいうサンフランシスコ・システム)を一度リセットしようというものだった。

改憲問題を語る上で、必ず語らざるをえない歴史の経緯と現状の矛盾がここに整理されている。必読!

(出版元:集英社インターナショナル)

FullSizeRender.jpg

『わたしの自由について~SEALDs 2015~』 西原孝至監督

May 15, 2016

2015年安倍政権が安保法案を成立させていった過程で、SEALDsの学生たちはどんな声をあげ、何をしたのか。彼らの信頼を得、密着して撮影したこの作品は、彼らの圧倒的な熱量をあますことなく伝える。

保守・革新、右派・左派など学生運動が集団としてみなされた60年安保に比べ、60数年後の現代の学生は、自分たちの顔と名前をさらけ出し、「個人として」安保法制に反対する。煮えたぎる怒りと熱情がこちらにびんびんと伝わってくるばかりでなく、その主体のあり方の変化がすばらしい。「みな個人として、こんな国はいやだ!変えたいと思って、自然と集まっている(牛田くん)」ゆるやかな個人の繋がりが、パワフルなのだ。

まさしくそこに主体的な民主主義がある。ひとりひとり個人主体の政治意識=「わたしの自由」と、ゆるやかな団結(この言葉も古いけど)が次の世代の子どもたち、若者たちにかっこいいと思われるに足る、濃密な思考のうねりを産み出した。

 映画としてよくできている。反対意見や対立軸を示しきれていないという批判はこの映画にはあたらないだろう。なぜなら、SEALDsという小さな(しかし熱い!)窓からこの日本社会がどう見えているかを照射すること、そして主人公であるかれら学生たちの怒り、涙、笑い、焦燥、迷いなど、豊かな時間を一緒に経験させてくれる青春物語を描ききること、この二点において成功している本作は、一つの凝縮した世界観を指し示す映画として成立しているからだ。165分という長さがあっという間に感じられるのは、若者たちの血肉に見る僕たちが一体化してしまい、時間を忘れてしまうからに他ならない。

http://www.about-my-liberty.com/

「SHARING」 篠崎誠監督 

May 9, 2016

2年前東京フィルメックスで見て、その後、再編集された新バージョンができたということで、テアトル新宿で拝見。

強震が続く中で原発再稼働をする政府、市民の権利を制限し戦争に向かうことを厭わない権力者を日々目にして僕たちが感じるのは、「まさかそんなことは起こるまい」と思っていた潜在的恐怖の現実化である。

この映画では新たな原発が爆発する。

その恐怖を「まさか!フィクションの世界のお話でしょ」と切り捨てることのできない世界に僕たちは住んでおり、この作品は負の引力が渦巻く”いま”の社会の”みらい”を指し示している。

リアリティ・フィクション。

桐野夏生氏の新作「バラカ」を思い出した。

311以後、いまだ原発事故が収束せず、その恐怖が通奏低音のように辺りに満ちている日常の中で、フィクションにできること、やるべきことはなにか。この作品はそれを指し示しているかに見えた。

映画「SHARING」 篠崎誠監督 
http://sharing311.jimdo.com/

以下、以前作品に寄せたコメント。

—————————————————————
「映画において、編集点で区切られるショットには各々全く異なる時間が流れており、それが積み重ねられたフィクション———ホラーなり、サスペンスなり、 ラブストーリーなりがしかるべき物語を盛り上げ、指し示す“共有された”心理は、しょせん同じ時空間に所属していない人間たちの幻想に過ぎないという事実 を、ある苛烈な傷みをもって見るものに突きつける作品、それが「SHARING」(反語的なアイロニー)である。

大学構内という無機質な空間が、突如ぐぅ〜にゃりと曲がりはじめ、我々が立っている地面がぐらぐらと地殻変動を始める。映画を見る我々の視線が、どれだけ 作り上げられたフィクションの前提の上に立脚しているのか、篠崎監督は1ショットごとに暴いてみせる。過去なのか、現在なのか、未来なのか、ショットごと に時空を飛び越えるという、こんな画面の緊張を私は見たことが無い。我々は、果たしてこの映画を見終えた時、ここに立っていられるのだろうか。視線を投げ 掛ける我々は、一枚、また一枚と意識の層を剥ぎ取られ、その先には世界の行く末といっても過言ではないラストが待ちうける。
恐るべきサイコサスペンスの誕生である。」

舩橋淳(映画作家)

maxresdefault.jpg

「海よりもまだ深く」 是枝裕和監督

April 27, 2016

映画空間の完成度としては今の日本映画において群を抜いている。
被写体との距離感、レンズの選択、照明、映像設計、さらに人物描写の深み、役者の動かし方、小物の使い方など、見ていて画面の充実に舌鼓を打つ自分がいた。

団地3DKの狭い室内空間の演出、テレサ・テンの曲とテーマとの関係、阿部寛と樹木希林、小林聡美の余裕綽々のユーモアもすばらしい。団地の冷蔵庫のにおい、など五感に訴える団地描写、ディテールは脚本の勝利である。

おそらく過去作品「歩いても、歩いても」と比較されるだろうが、テーマの掘り下げ、脚本の完成度、演出のキレは、こちらがより研ぎすまされている。

阿部寛の、社会への穿った見方をもつキャラ、あの歩き方とユーモアがとても面白く、愛すべき主人公を描ききった時点でこの映画の勝利、もっといってしまえば興行的成功は保証されているだろう。

一つの家族だけでなく、団地コミュニティ——橋爪功による、ばあさんたちのクラシック拝聴クラブ−−もいい。団地の現在を描き、高齢化、孤独死といった団地の現代をうっすらと照射する。

映画の完成度としては文句ない。
しかし、相容れないと思ったのが、作家の描く人物の世界観でもあった。主人公・阿部寛は、小説家として一冊出版し、小さな賞を獲得したもののその後が続かず、生活費にも困り、探偵事務所で働いている。ギャンブルにも手を出し、一発逆転を夢見る性格が元妻(真木よう子)に軽蔑されるーーという社会的「負け組」のステレオタイプとして設定する世界観に違和感を覚えた。イーストウッドならこうはしないだろう。もしくは、野田高梧の脚本ならこうはならないだろう。世間一般の「勝ち組」賛美の価値観を映画がなぞるなら、それに対抗する個人の存在を入れこむのが、作家のあり方であると思う。阿部寛が、親権も妻に取られた息子と夜中二人きりになり、将来公務員になりたいと夢のないことをいう男の子に「何かになりたいっていう気持ちが大切なんだ」というが、いかにも説得力がなく響くのが残念。「ダメ男」としてユーモアがあっても、その中に彼の尊厳を見たい、というのが素直な感想だった。

「東京物語」で原節子に贈られた義母の形見の時計の意味だと思うのだが、物語がそのクライマックスの一つであり得た、母からの贈り物(内容は公開前なので伏す)が空転してしまっていた。母(樹木希林)と元嫁(真木よう子)の心の闇の描写が弱いため、である。それが遠因だろう、映画の幕引きが唐突に感じられるのも、人物描写が不完全燃焼だったためによる。そこが残念ではあった。

umi.jpg

さざなみ 45 years

April 27, 2016

Directed by Andrew Haigh
Based on In Another Country  by David Constantine
Starring • Charlotte Rampling Tom Courtenay

Charlotte Ramplingの奥深い眼差しの暗さに全てを賭けた一本。
人間の心理をその底の底まで描くことは不可能。
ならでは、悲しみに沈む人の実存と孤独の時間に、じっくりレンズを向け続けるだけだ。そうすれば、女優の肉体が透明化し、その向こうに何かがみえるかもしれない。

こうして、Charlotte Ramplingの瞳の奥に見える暗い影に賭けた映画作家Andrew Haighの眼力はすばらしい。

物語は凡庸そのもので、言い方はわるいが「あってもなくてもいい映画」ではある。衝撃を持って映画史を更新している訳でもない。

しかし、作品の持つ「毒」が見るものにじっくりとしみ込んでくる映画であった。

45years.jpg