【書評】「日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか」矢部宏治

June 20, 2016

「無期限に、どんな兵器を持ち込んでいるのか日本政府へ知らせる義務もなく、日本防衛以外の他の目的でじゃんじゃん使える」基地を、どうしてアメリカが日本国内に持つことが可能になったのか?

戦後の米軍占領下にさかのぼり、そこから二つの安保条約、昨年の新安保法制まで、歴史と国際政治学を縦糸と横糸に編み込み解き明かした。

戦後米軍占領下マッカーサーの最初の構想は、日本は非武装中立となり、沖縄を含む太平洋の島々に配備する国連軍に守られるというものだった。

それが1950年朝鮮戦争が起こり、占領軍が日本から朝鮮へ出撃してゆく最中(「日本の4つの島は巨大な補給倉庫になった」)、サンフランシスコ平和条約で日本が独立したことで、歯車が狂いだした。

平和条約と同時に結ばれた旧安保条約の追加文書に、
「継続中の朝鮮戦争については、国連軍への日本を通しての軍事支援を今まで通り続ける(要約)」

とあった。国連軍は、もちろん米軍を意味し、つまり日本が独立後も米軍への軍事支援を行い続けるという素地がここで出来上がってしまった。

そして、何度かの修正の過程で、

朝鮮戦争での国連軍への軍事支援 
   → 朝鮮以外の場所でも自由に戦争する米軍への支援

(駐留する米軍は)外部からの武力攻撃に対する日本の防衛だけを目的とする 
    →極東における安全保障、ならびに日本防衛  (意訳)

へと書き変えられていった。

つまり、「極東における安全保障」のためなら、米軍は日本から出撃して世界のどこでも戦争ができるということにされた。

最初の段階から比べると、まさに「詐欺に遭った」歴史。

そして、これに様々な密約が追加され、60年の安保改定、日米地位協定という不平等条約になった。

占領下における戦時体制(戦争協力体制)をずるずると引っ張られ,うまいこと言って、使われているのが、今の日本の米軍基地であり、殆ど隷従的な日米関係なのである。

ここまで読むと、げんなりしてしまうのだが、筆者はこれをふまえて、日本はどうやって、日米を対等な関係に持ってゆけるのか、誠実で深みあるリサーチをふまえて提言をしている。

<二つの日本独立モデル>
 フィリピン・モデル ——米軍撤退条項と加憲型
 ドイツ・モデル ——朝鮮半島統一による朝鮮国連軍の消滅、そして米軍撤退

これは、リアルにあり得るモデルケースとして説得力がある。

 こういった提言を通して筆者が最も強く主張しているのは、戦後占領下からずるずると続いてきた、国連軍という名の米軍に日本を自由に使わせる不平等条約(「敗北を抱きしめて」のジョン・ダワー氏のいうサンフランシスコ・システム)を一度リセットしようというものだった。

改憲問題を語る上で、必ず語らざるをえない歴史の経緯と現状の矛盾がここに整理されている。必読!

(出版元:集英社インターナショナル)

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『わたしの自由について~SEALDs 2015~』 西原孝至監督

May 15, 2016

2015年安倍政権が安保法案を成立させていった過程で、SEALDsの学生たちはどんな声をあげ、何をしたのか。彼らの信頼を得、密着して撮影したこの作品は、彼らの圧倒的な熱量をあますことなく伝える。

保守・革新、右派・左派など学生運動が集団としてみなされた60年安保に比べ、60数年後の現代の学生は、自分たちの顔と名前をさらけ出し、「個人として」安保法制に反対する。煮えたぎる怒りと熱情がこちらにびんびんと伝わってくるばかりでなく、その主体のあり方の変化がすばらしい。「みな個人として、こんな国はいやだ!変えたいと思って、自然と集まっている(牛田くん)」ゆるやかな個人の繋がりが、パワフルなのだ。

まさしくそこに主体的な民主主義がある。ひとりひとり個人主体の政治意識=「わたしの自由」と、ゆるやかな団結(この言葉も古いけど)が次の世代の子どもたち、若者たちにかっこいいと思われるに足る、濃密な思考のうねりを産み出した。

 映画としてよくできている。反対意見や対立軸を示しきれていないという批判はこの映画にはあたらないだろう。なぜなら、SEALDsという小さな(しかし熱い!)窓からこの日本社会がどう見えているかを照射すること、そして主人公であるかれら学生たちの怒り、涙、笑い、焦燥、迷いなど、豊かな時間を一緒に経験させてくれる青春物語を描ききること、この二点において成功している本作は、一つの凝縮した世界観を指し示す映画として成立しているからだ。165分という長さがあっという間に感じられるのは、若者たちの血肉に見る僕たちが一体化してしまい、時間を忘れてしまうからに他ならない。

http://www.about-my-liberty.com/

「SHARING」 篠崎誠監督 

May 9, 2016

2年前東京フィルメックスで見て、その後、再編集された新バージョンができたということで、テアトル新宿で拝見。

強震が続く中で原発再稼働をする政府、市民の権利を制限し戦争に向かうことを厭わない権力者を日々目にして僕たちが感じるのは、「まさかそんなことは起こるまい」と思っていた潜在的恐怖の現実化である。

この映画では新たな原発が爆発する。

その恐怖を「まさか!フィクションの世界のお話でしょ」と切り捨てることのできない世界に僕たちは住んでおり、この作品は負の引力が渦巻く”いま”の社会の”みらい”を指し示している。

リアリティ・フィクション。

桐野夏生氏の新作「バラカ」を思い出した。

311以後、いまだ原発事故が収束せず、その恐怖が通奏低音のように辺りに満ちている日常の中で、フィクションにできること、やるべきことはなにか。この作品はそれを指し示しているかに見えた。

映画「SHARING」 篠崎誠監督 
http://sharing311.jimdo.com/

以下、以前作品に寄せたコメント。

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「映画において、編集点で区切られるショットには各々全く異なる時間が流れており、それが積み重ねられたフィクション———ホラーなり、サスペンスなり、 ラブストーリーなりがしかるべき物語を盛り上げ、指し示す“共有された”心理は、しょせん同じ時空間に所属していない人間たちの幻想に過ぎないという事実 を、ある苛烈な傷みをもって見るものに突きつける作品、それが「SHARING」(反語的なアイロニー)である。

大学構内という無機質な空間が、突如ぐぅ〜にゃりと曲がりはじめ、我々が立っている地面がぐらぐらと地殻変動を始める。映画を見る我々の視線が、どれだけ 作り上げられたフィクションの前提の上に立脚しているのか、篠崎監督は1ショットごとに暴いてみせる。過去なのか、現在なのか、未来なのか、ショットごと に時空を飛び越えるという、こんな画面の緊張を私は見たことが無い。我々は、果たしてこの映画を見終えた時、ここに立っていられるのだろうか。視線を投げ 掛ける我々は、一枚、また一枚と意識の層を剥ぎ取られ、その先には世界の行く末といっても過言ではないラストが待ちうける。
恐るべきサイコサスペンスの誕生である。」

舩橋淳(映画作家)

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「海よりもまだ深く」 是枝裕和監督

April 27, 2016

映画空間の完成度としては今の日本映画において群を抜いている。
被写体との距離感、レンズの選択、照明、映像設計、さらに人物描写の深み、役者の動かし方、小物の使い方など、見ていて画面の充実に舌鼓を打つ自分がいた。

団地3DKの狭い室内空間の演出、テレサ・テンの曲とテーマとの関係、阿部寛と樹木希林、小林聡美の余裕綽々のユーモアもすばらしい。団地の冷蔵庫のにおい、など五感に訴える団地描写、ディテールは脚本の勝利である。

おそらく過去作品「歩いても、歩いても」と比較されるだろうが、テーマの掘り下げ、脚本の完成度、演出のキレは、こちらがより研ぎすまされている。

阿部寛の、社会への穿った見方をもつキャラ、あの歩き方とユーモアがとても面白く、愛すべき主人公を描ききった時点でこの映画の勝利、もっといってしまえば興行的成功は保証されているだろう。

一つの家族だけでなく、団地コミュニティ——橋爪功による、ばあさんたちのクラシック拝聴クラブ−−もいい。団地の現在を描き、高齢化、孤独死といった団地の現代をうっすらと照射する。

映画の完成度としては文句ない。
しかし、相容れないと思ったのが、作家の描く人物の世界観でもあった。主人公・阿部寛は、小説家として一冊出版し、小さな賞を獲得したもののその後が続かず、生活費にも困り、探偵事務所で働いている。ギャンブルにも手を出し、一発逆転を夢見る性格が元妻(真木よう子)に軽蔑されるーーという社会的「負け組」のステレオタイプとして設定する世界観に違和感を覚えた。イーストウッドならこうはしないだろう。もしくは、野田高梧の脚本ならこうはならないだろう。世間一般の「勝ち組」賛美の価値観を映画がなぞるなら、それに対抗する個人の存在を入れこむのが、作家のあり方であると思う。阿部寛が、親権も妻に取られた息子と夜中二人きりになり、将来公務員になりたいと夢のないことをいう男の子に「何かになりたいっていう気持ちが大切なんだ」というが、いかにも説得力がなく響くのが残念。「ダメ男」としてユーモアがあっても、その中に彼の尊厳を見たい、というのが素直な感想だった。

「東京物語」で原節子に贈られた義母の形見の時計の意味だと思うのだが、物語がそのクライマックスの一つであり得た、母からの贈り物(内容は公開前なので伏す)が空転してしまっていた。母(樹木希林)と元嫁(真木よう子)の心の闇の描写が弱いため、である。それが遠因だろう、映画の幕引きが唐突に感じられるのも、人物描写が不完全燃焼だったためによる。そこが残念ではあった。

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さざなみ 45 years

April 27, 2016

Directed by Andrew Haigh
Based on In Another Country  by David Constantine
Starring • Charlotte Rampling Tom Courtenay

Charlotte Ramplingの奥深い眼差しの暗さに全てを賭けた一本。
人間の心理をその底の底まで描くことは不可能。
ならでは、悲しみに沈む人の実存と孤独の時間に、じっくりレンズを向け続けるだけだ。そうすれば、女優の肉体が透明化し、その向こうに何かがみえるかもしれない。

こうして、Charlotte Ramplingの瞳の奥に見える暗い影に賭けた映画作家Andrew Haighの眼力はすばらしい。

物語は凡庸そのもので、言い方はわるいが「あってもなくてもいい映画」ではある。衝撃を持って映画史を更新している訳でもない。

しかし、作品の持つ「毒」が見るものにじっくりとしみ込んでくる映画であった。

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「牡蠣工場」  想田和弘監督 

March 14, 2016

映画には、世界の広がりをそのまま画面に表現しようとするものと、小さな窓から限られた空間を見つめることでその外部との関係から、世界のあり方を照射するものとがある。前者は、近年アカデミー賞を占めている「Argo」や「Birdman」など、キャメラが自由自在にあらゆる場所に飛び回り(今それはドローンで加速している)、至る所にキャメラがゆくことで人の想像を凌駕する「見せつける」映画であり、後者は、派手で賑やかそうな外部の世界からは身を退かせ、こじんまりとした空間の中にレンズを置き、そこで見えてくる親密な細部から、思わぬ発見に出会い、それが実は世界に通じているのだ、と人の想像力を増幅させるまで辛抱強く見る者と寄り添う、「ともに見る」映画である。

想田和弘の「牡蠣工場」はまさしく後者の「ともに見る」映画である。
岡山の小さな港町・牛窓。そこで繰り広げられる牡蠣の養殖業に腰を据え、そこに流れる時間「だけ」に集中することで、この世界の様々な問題が浮上してくる。集中することの力は、世界の表面をさっと撫でて見た気になってしまうネット文化とは逆方向の、感性の在処を見る者に発見させる。

「選挙」「演劇」など題名だけは、まだ一般性を持ったものを選んでいたこの作家が、「工場」ではなく、「牡蠣工場」とさらに細部化したそれを選んだことにも、その集中する力への信頼がより増してきていると言えるかもしれない。

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「黒ずんだ手でできること」 舩橋淳 2016/3/11

March 11, 2016

この国において、今日この日になると思い出さない人間は殆どいないのではないのか、と思われる5年前の災禍。

メディアでは、記憶が薄れてゆくこと、様々な問題が風化してゆくことを取り上げ、311を忘れてはならない、原発事故はまだ終わっていない、という論調が支配的になるだろう。

それは確かに間違ってはいない。

あの日、津波や原発事故の映像を目撃し、心震わせ涙したことを僕らはきっと忘れないだろう。自分に起きた最も人間的で感情的な反応を、日々の淡々とした日常に埋没することなく、しっかりと胸に刻み付け、そこから学んだことを活かそうとする意思は大切だからだ。

しかし、それだけでは足りないのではないだろうか。

「今もなお」、福島第一原発からは放射能が漏れ続けており、特に海洋への汚染水の流出は未知数である。それを防ぐはずの遮水壁も全くうまく行っていない。

線量が高い帰還困難区域は「今もなお」存在し、福島県からは10万人以上が自宅を追われ、避難生活を「今もなお」続けている。

さらに国際基準よりも20倍も高い被ばく許容量を国が設定したことにより、避難対象にならず被ばくを強いられている人々と、それは受け入れられないとして自主避難した人々の数はさらに多い。

年月を経て、問題はより複雑になった。
福島の被ばくを指摘し、改善を望むことが、逆に復興の妨げになるから「もう騒ぎ立てないでくれ」とする福島県内の空気。それが、復興という名の抑圧を生んでいる。

それは、社会構造的な暴力であり、虐待といえる。

臭いものにはフタをして見ないことにし、それよりもまずは復興を、気持ちの上で寄り添うことが大事、と「見ないこと」に加担するのは、この構造的な虐待に手を貸すことになる。

大切なのは、遠く離れたところから「福島を救え!」と叫ぶことでも、被ばくの事実を取り上げ、「政府がなんとかしろ!」と政権を糾弾することでもない。ベクトルの方向に注意したい。あるべき姿は、各々異なる被災者のジレンマをまず受け止め、そこから自分にできることを考えてゆく姿勢だと思う。

この5年間、周辺を旋回するばかりで本質をついていない「空騒ぎ」が多かった。例えば、「美味しんぼ」の鼻血問題。いま聞くと、とたんに問題が極小化したように感じられないだろうか・・・当時はものすごい騒動だったのに。

僕たちが無視すべきでない本質とは、矮小化されている被ばくの問題である。

福島では、166人が(疑いも含め)小児甲状腺がんと診断された。
通常の250倍以上の発生率。しかもがん患者の子供たちの分布は、線量マップと一致している。なのに、政府は被ばくとがんに影響は認められない、と否定する。

このままいけば、「原発事故が起きても健康被害は起きない」という既成事実が作られてしまう。恐ろしい事態が進行しているのだ。

しかも、それが僕たち、関東圏の人間が使ってきた電気のせいで。

(いろんな場所で繰り返しているが)僕たちは原子力発電を支え、原発事故に加担してしまった当事者である。何も関係ない部外者ではなく、僕たちの手は、黒ずんでいるのだ。その事実を忘れてはいけない。

遠く離れた地方の人々に、知らず知らずのうちに犠牲を強いる原発という構造的な暴力装置にこれ以上、加担しないこと。無意識のうちに一部の人に犠牲を押し付けないよう、「意識力」を高めること。

僕らはもっともっと注意深くありたい。
自分の使う電気、ガス、水、エネルギー、資源がどこから来ているのか?いつでも知っていたい。自分が何を消費しているのか。それは社会構造的に「消費させられている」のかもしれない、と疑う注意深さ。

メディアリテラシーが必要だ。
311以後、権力への監査・チェックを行う新聞社・TV制作者も少なからず存在するが、もう一方で政権や企業の発表をそのまま垂れ流す喧伝装置になっているメディアも多い。

ノーム・チョムスキーが言っていた
「知性とは、疑いのないところに欠けている何か」だと。

僕たちは権力の使う言葉には、いつも疑い深くありたい。

先日の、福島の農業従事者と環境省の代表会議で何度も叫ばれたとおり、「風評被害とは、根も葉もない噂のこと。」しかし、今の福島で起きている放射能汚染と、それによる買い控えは、「根も葉もある実害である。」

だから、「風評被害」という言葉を使うこと自体が、政府の福島抑圧作戦に加担することになるのだ。この言葉は使うべきではない。

柄谷行人がかつて指摘したように、日本政府は、原発推進のためのキャッチフレーズを歴史上4度、変更した。

①「原子力の平和利用(1950~60年代アメリカから導入時期)」
②「資源の乏しい国のための未来のエネルギー(1970年代オイルショック期)」
③「CO2を排出しないクリーンエネルギー(80年代後半〜地球温暖化期)」
④「電気が足りない(311以降〜現在)」

そして、今僕たちはこれらがすべてウソだったことを思い知った。

とくに導入期の「明るい未来のエネルギー」は、原発立地市町村だけでなく、高度経済成長期の日本人がみな乗っかったレトリックだった。(そう、鉄腕アトムを見てほしい)

ときの権力が用いるレトリックを鵜呑みにする文化から、
それに疑いの眼差しを向け、自分たちの言葉で考える文化へ僕らの主体が変わらないと本質的な変革にはならないだろう。

そうやって、自分の言葉で社会のあり方を語る環境を、子供たちから醸成してゆくべきではないか。

「どうやって生きるべきか」を語ることが、「政治的な話だからイヤ」のようなネガティブな空気に絡めとられるのではなく、「当然そうでしょ!Cool!」と受け止めてもらえる環境づくり、みんなの雰囲気づくりに寄与したい。

どうやったらハッピーでかっこいい人生を送ることができるのかが、この「意識力」の高さにつながるようなダイアローグを生んでゆきたい。それってクリエイティブな作業だと思う。

やっぱりイソップ童話「北風と太陽」のように、人間は「〜であるべきだ!〜しろ!」と命令されるより、こっちの方がおもしろいよ、わくわくするよ、といわれる方を好むもの。

「我々は不正義を強いられている!断固反対!」と怒る被害者意識は、限界がある。

エネルギーも、資源も、社会インフラも「消費させられている」という被害者意識は、いつまでも受け身であり、だからその場しのぎの「文句言い」になる。

僕は、この被害者意識こそ逆転すべきだと思う。

どんな資源とエネルギーを使って、どんな生き方をしたいのか?
そこから、どんな社会のあり方、どんな政治の方向性であってほしいのかが見えてくる。子供たちの教育も、高齢者への福祉も、農業への助成も、移民への政策も、自分たちの生き方がどうしたいかの延長として自分たちの社会を空想するところから発想されるべきと思う。

そんなポジティブなダイアローグを生み出してゆきたい。

よく脱原発社会のためには、安い自然エネルギーを整備すればいい。そうすれば市場原理で、消費者は自然エネルギーを選ぶから問題ない、という議論を聞く。しかし、それだけで満足すべきではない。そこに思想がないからだ。

エネルギーを何の考えもなく受け身で消費し続けること自体がおかしい、と311で僕らは身に沁みるほど学んだからだ。

自分が何を消費するのか、という自分主体の「意識力」を持つべきであり、それがなければ、また「文句言い」の被害者意識に堕ちてしまう。

被害者意識を転換し、自分の言葉で、自分の生き方と政治を語る人々の輪を広げてゆければ、と思う。

そんな思いで、6年目の東北に向け黙祷を捧げたい。

舩橋淳

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書評:「原発棄民」 日野行介(毎日新聞出版)

March 4, 2016

長引く原発避難の現状を探るため、仮設住宅、見なし仮設、復興公営住宅、災害公営住宅(←この2つの違いがわかるだろうか?)、役場、県庁などなど徹底した現地取材で炙り出す、現場の不条理が活写されている。

福島原発事故の長期化が明らかになってきた2012年に、単なる仮設住宅ではなく、住居、学校、病院、福祉施設からなる町外コミュニティ拠点(いわゆる「仮の町」)を作るべきではないか、という避難民の人生にとり最も本質的な議論が福島県や総務省で開始されたとき、法的に二重戸籍を作れない、という役所の都合で、廃案になっていったという驚くべき事実を、時系列にそって緻密に調査している。

その過程で明らかになるのは、「復興」がいかに本来あるべき姿からかけ離れた、役所の内的な都合で決定されてゆくのか、という寒々しい姿である。

住宅援助(見なし仮設、復興公営住宅など)についても、状況的には「避難」であるはずなのに、復興公営住宅に入居したり、新居を買う場合の賠償金の増額制度によって、新たな土地への定住に人々を追いやり、そうすることで、「避難の終了=賠償の打ち切り」をできるだけ早く達成するという目標ありきで、国が、県庁が、施策を進めていることが明らかとなる。

自主避難者に対してはもっと酷い。そもそも国際基準1mSv/年の20倍の、20mSv/年で線引きをしている避難基準の矛盾が噴出する。役人は、「帰りたいか、帰りたくないかをそれぞれ決めてもらう。帰還を強制している訳ではない。」と言い張るが、帰還か定住かの判断を迫り、実質「避難」を終え、住宅支援を軸とする支援打ち切りを発表する。経済的に立ち行かず、福島県内の自宅に戻るしか選択肢がない人が、「なぜ被ばくを強要されなければいけないの?」と質問しても、無視されるのみ。

そんな矛盾だらけの現場のケーススタディをいくつも精査してゆく中で浮き彫りなるのが、国益、省益、県益という名の下正当化された、市民の「切り捨て」である。

時代を揺るがす災害(今回の場合、人災)が起こったとき、調査報道とは、なにも東京の国会図書館に通ってやるものではない。被害にあった人々の目線に立ち、彼らの人生の時間から、権力のあり方を照射すること、その齟齬を明らかにすることこそがその主眼にあるべきだ。その点、本書は、権力による「箱の復興」が、いかに「人の復興」から乖離しているのか、を丁寧に描き出しており、その視点の正しさとその背後を貫く記者の執念(=怒り)に、読者は心を動かされずにはおれない。調査報道のあるべき姿を示しているといえよう。

そして、読み終えた読者を襲うのは、官庁において、このような「省益」「国益」「県益」のメンタリティが根底にあり続けるかぎり、同じような災害があれば、再び同じ過ちが起きるという、暗い確信である。

舩橋淳

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「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48」 DIRECTOR’S STATEMENT

January 29, 2016

この映画に描かれるのは、アイドルについての予備知識を全く持たない外部の視点から見つめたNMB48の姿である。恥ずかしながらメンバーの名前も顔も知らなかった僕が、虚心坦懐にアイドルの世界の表と裏、光と闇、ハレとケを見つめ、できる限りありのままの世界をスクリーンに載せようと力を尽くした、そんな作品である。

2015年2月末以来、NMB48、AKB48のマネジメントより着替え部屋以外、ほとんど全ての場所へのアクセスを許された僕たち撮影クルーは、メンバー一人一人の素顔を忍耐強く凝視していった。

僕たちは、難波の街の地下にある本拠地・NMB48劇場へ足繁く通った。毎日の公演が彼女達のベースなのだろう、と思ったからだ。そしてそこで繰り広げられている光景は圧巻だった。16名のメンバーがシンクロしてダンスし、大声で歌うエネルギーは見る者をゆうに凌駕するもので、例えば「らしくない」のサビのダンスは何もしらない初見でも鳥肌が立ったのを覚えている。

しかし、真の発見はそれではなかった。

日々の公演の直後、楽屋裏の鏡部屋とよばれるリハーサルルームで、スタッフ、振付師、舞台監督とメンバーで反省会が開かれた。そこでは、容赦ない批判、叱咤があり、メンバーが泣き出してしまうのも目撃した。グループ内での競争も熾烈で、ポジション争いに敗れたものは公演メンバーの16名にも入れず、楽屋裏でダンスの練習を続けなければならなかった。また、公演に出られたとしても、エース集団・シングル選抜に入ることができず、辞めてゆくメンバーも少なくなかった。過酷なアイドルの生存競争がそこにあった。

僕らはその全てを描きたい、とできるだけキャメラを廻した。総フッテージ数は300時間超。さらに、NMB48結成時から撮り貯めた過去素材約1200時間を借り受けた。その膨大な量の素材を見ながら、競争に勝ち上に立つ者、一番下になる者、実力があると評価されていたのに降下してきた者、逆に下からぐいぐいと成長してきた者、辞めるか辞めないかの瀬戸際で迷いに直面している者など、メンバー一人ひとりが異なる状況にあることに気づかされた。NMB48全体を描くには、一人ひとりの個性も大事だが、この背後にある序列のシステム、皆がいつも気にしている人気、ファンとの関係、それを支えるスタッフや家族をも含めてはじめてメンバーが日々何を考え、何を感じ、どんな思いを胸に携えステージに立っているのか、をあぶり出せるのではないか、と考えた。

僕は今まで複数の人間が生きるコミュニティを描いた映像作品を多く作ってきた。ニューヨークに10年間住んでいた折、911後の移民社会を描いたり、帰国後東京谷中の変わりゆく下町共同体を撮影したり、1人、2人の主人公を中心に展開してゆくストーリーというより、複数の人間が生きる世界の網の目を描き出す作品(ドキュメンタリーもフィクションも含む)に興味がある。今作でも、採り上げる人数はどうしても限られてしまうが、その人を見つめてゆけば、NMB48のコミュニティの全体像が見えてくるようなメンバーを取材対象として絞り込んでいった。

女の園である楽屋のコミュニティに入ってゆくと、そこには独特の空気があり、メンバー達が共有しているノリがあった。やはり大阪の女の子だからだろうか、自然な掛け合いがめちゃくちゃおもしろく、キャメラの横で僕が抱腹絶倒していることもあった。Team N, M, BII それぞれのカラーがあり、それぞれにムードメーカーや、一匹狼、おしゃべりもいれば、理知的な子、寡黙な子もいる。それら皆が相まってチームの輪を作っている雰囲気が楽しく刺激的に思え、映画でも見る人がさも楽屋裏にいて、メンバーの日常を目撃しているかのように感じられるよう撮影・編集には気を配った。非公式ユニット(後に公式になったが)<俺ら>を取り上げたのも、山本彩さん、小谷里歩さん、岸野里香さん、山口夕輝さん、小笠原茉由さんら五人の掛け合いが絶妙で、僕が単純に腹を抱えて笑ったからである。アイドルであるまじき、自虐ギャグや互いへの鋭いディスりツッコミに悪のりが相まり、彼女たちの信頼ベースの「笑い」のクリエーションが見事!と思えたのである。

また、ファンとの関係もNMB48を語る上では不可欠のように思えた。月に最低でも2、3回は開かれている握手会・写メ会に訪れてみると、ファンとの密度濃いコミュニケーションの現場が僕を魅了した。現代のアイドルは崇め奉るものでなく、平たく友達感覚で話す、もしくは「俺がついてるから自信もって。大丈夫だから。」「ありがとう。嬉しい。」と語り合い、パーソナルな関係をメンバーと築いているコアファンも多くいた。それはまさしく(疑似)恋愛。熱量がキャメラを廻すこちらにも伝わってきて、なぜこれだけの規模のアイドルグループが成立し継続できているのか、が実感をもって理解できた。

海外、特に西欧・北欧ではAKB48グループに関し、10代の女の子に性の対象としてコスプレをさせ消費している異常な文化だと批判する声がある。しかし、実際、コミュニティの中に入り込み撮影した立場から言えば、そのような断定は当たらないと思う。映画では尺の関係でカットせざるを得なかったが、取材した一人・文教大学の大塚明子准教授は、「日本ほどフィクションと現実がはっきり切り離された文化圏はない。西欧では、ロリコン的十代の性の露出を許せば、大人は見境がつかなくなり性犯罪が増加するという考えがベースにあるが、日本は世界的に見て性犯罪の数は極端に少ない。逆にアイドルというフィクションをファンとメンバーが共有する、巨大なゲーム=リアリティショーがあり、それと現実はまるで違うものと線引きする社会認識がある。アイドルが水着で肌を露出しているからといって、その子が性的に奔放だとは誰も思わない。アイドルという共同幻想をみなで楽しんでいる文化なのです。これは日本に独特なもので、西洋の基準で判断されるべきものではない。」と言った。

実際、僕らが接したファンの人々は、ごく普通の節度を持った社会人が多かった。「おたく」幻想が、アイドルカルチャーへの偏見を助長していると、この撮影を通して思った。だからこそ、メンバーを支える大事な要素として、等身大のファンの姿、そして、彼らがどうしてNMB48に惹かれ、同じCD をいくつも購入するのか、というタブー視されている問題を正面から見つめるべきだと考えた。ファンを類型化することなく、その人の人間味が出るように描ければ、初めてNMB48もしくはアイドルについての映画を見る人でも心に響くのでは、と思った。

ファンやスタッフ、運営部、レコード市場に支えられて成立しているNMB48であるが、そのアイドル達がよく形容される言葉に“きらきらしている”があった。実際に渾身の力を込めステージ上で踊り、歌う彼女達を見ていると確かに“きらきら”輝いているように感じられるが、それは何も彼女達がかわいいからだけでそう見えるのではない。プレッシャーまみれの、真剣勝負の毎日をぎりぎりの緊張感とともに生き抜いているからこそ、そう見えるのだと僕は考える。周知の通り恋愛は禁止され(“男友達と遊ぶ”ようなグレーの行為も含む)、クラブ活動や友達との放課後などごく普通の学生生活を体験できず、時には大学進学を諦める場合もある・・・ 多くを犠牲にして、アイドルとしての仕事に全てを捧げる彼女たちは、10代にして「やらないこと」の選択を迫られる。それがアイドルとして生きることだった。

僕も含め多くの人間は20代になんとなく人生でやりたいこと(職業)を選んでゆき、転職をしつつ30代で自分の道を絞り込み、逆に「やらないこと」を選択する。しかし、多くを削ぎ落とすことで成立するアイドル稼業は、その負の選択を10代で迫られ、売れればまだしも売れずに脱落すれば、学歴はないし、他の仕事のオプションも限られる、厳しい人生が待っている。

ジェンダー平等や女性のエンパワーメントがまだまだ後進国である日本において、女性の社会的地位はまだ男性と同じとは言えない。それはシングルマザーの貧困率が高かったり、女性の再就職が困難であったりする状況だけでなく、女性は年齢が若ければ若いほどよい、「若いわね〜」というのが褒め言葉になるベース文化(欧米では褒め言葉というより、物理的に若いという意味か、もしくは未熟という意味になる)があり、若くフレッシュでなければダメという美的価値観が、「若くてかわいい」アイドル文化を支え、逆に「若くてかわいい」でなくなれば、用無しとなる厳しい業界を生む。NMB48も例外ではなく、だからこそメンバーの親御さん達の心配たるや尋常ではない。親御さん達が、かわいい愛娘をどんな思いで送り出しているのか・・・切り立った崖の上で生きるか死ぬかの真剣勝負を毎日繰り広げ、もし負けて脱落すれば、奈落の谷底がそこにあるからだ。そんなギリギリの状態のところでなんとか踏みとどまり、毎日背後にある奈落を感じつつ180%の力で戦い続ける、まるで死の直前のホタルのように強烈な光を発する、だから彼女達は「きらきら」しているように僕には思える。ふつうの人間の4倍速、5倍速で人生を疾走している、そんな印象である。

アイドルという共同幻想のゲームに乗っかる楽しさと、「やらないこと」を選択し人生を賭けているメンバー達のひりひりした逼迫感、その両方を重ね合わせた宙吊りの中にアイドル達の本当の姿を垣間みる、そんなサスペンスを観客の皆さんには感じていただきたい。不毛の荒野に咲く花の美しさである。

2時間という尺に収めるため(それが配給会社からの要請だった)、数々のシーンを涙を飲んでカットした。薮下柊さん、渋谷凪咲さん、市川美織さんなどはしつこく取材させてもらい、自宅にまでお邪魔したにもかかわらず全カットになってしまった。監督として申し訳ないと思っている。これらは、もしディレクターズカットを制作する機会があれば復活したいと思っている。(渋谷さんの淀川河川敷散歩シーンは、僕の大好きな場面だ!)また、本篇ではカットしたが沖田彩華さんの他にも多くのメンバーが未だシングル選抜に入れず、下積みを続けている。沖田さんをそんなメンバーの代表として見てもらえれば嬉しい。

この映画はNMB48のコミュニティ全体を描こうという野心に貫かれている。採り上げたメンバーは、かわいいからだけではなく、その背後に同じような境遇のメンバーが他にもいる。その子たちの姿へも観客が想像力を羽ばたかせ、六十数名の青春群像を感じて欲しいと思っている。そして、NMB48のことをよぉく知っているファンも、全く知らない初見の方も、アイドル達の世界に没頭し、まるでその日常をともに生き抜き、公演からリハーサル、握手会にレコーディング、総選挙まで体験した時、当初持っていた印象とはまったく違う、バージョンアップされたアイドル像を心に抱いてもらいたい、そう切に願う。

舩橋淳

【慰安婦問題日韓合意について私見まとめ】

December 30, 2015

ネット上でいろいろ賛否が錯綜していますが、僕の意見をまとめてみます。

●まずは、「日本政府が軍の関与や政府の責任を認め」たことは、素晴らしい。素直に評価すべき。

●安倍政権の姿勢からは、まったく予想だにつかなかった急展開。
 背後にアメリカからのプレッシャーを見るもの、来年夏の参院選への布石と読むもの、さまざまな憶測が飛んでいる。確かに「騙されないぞ」という懐疑的姿勢は必要だし、「軍の強制性はなかった」という重箱の隅の議論に終始し、歴史を直視しようとしてこなかったこれまでの言動から180度転換は、何かしら打算があると読むのが妥当かもしれない。

●その証拠に、10億円規模の日本政府からの拠出は、ソウル日本大使館前の少女像移転が交換条件だという。へ、なんで?という感じ。
 責任を認めているなら、被害者への哀悼とお詫びの象徴としての少女像を受け入れるというのが素直な解釈であるが、ここが安倍政権の二枚舌。
 政権の保守派支持層への顔向けとして、頑として譲らなかったそうだが、結局は少女像は「日本への侮辱」として捉えているということの表明になる。
 
 つまり、一方で罪を認めながら、もう一方で罪を認めていないということ。

女性の人権を蹂躙したことを心から悔い、その罪の重みと向き合い、二度とそれが起きないよう後世へ遺してゆこうという、真っ当な贖罪姿勢より、打算含みの政治的妥結のように見える。
 
●もっとも注目すべきは、慰安婦だった被害者がまるで置いてきぼりのまま、「最終的かつ不可逆的解決」が決められたこと。

 当事者が遠く離れたところで、政治だけが上滑りしているのは、どこの国にも見られるが、特に安倍政権の“無視ぶり”は常軌を逸している。
 沖縄基地問題、原発事故、震災復興、再稼動問題・・・・一番下の市民と、政治の「判断」が遠くかけ離れ、かつ「最終的」結論と言われることの不条理が続いている。

●しかしそれでも、どんなに政権不信があろうとも、大きな視点で捉えれば、これは進歩とみるべき。事実として政府が公式に「慰安婦問題の責任は、日本政府と軍にある」と認めたことは歴史的進展であり、この合意を負の歴史の直視のための次なる一歩に利用すべきだと思う。
 
http://www.asahi.com/articles/ASHDX51J5HDXUHBI00X.html

http://www.asahi.com/articles/ASHDX5HX3HDXUTFK00Y.html