万田邦敏&パロディアス・ユニティ

ご本人も昔のことと仰っているので、批評的言説にはなり得ないが、万田さんの8ミリ映画をずらっと見たという満足感から取り敢えず備忘録を。@アテネ・フランセ文化センター

西風  1977

一人の女性(万田作品のミューズ、永山愛子)が、死んだ男が残したメモにあったアンドレ・バザン、ゴダール、ジョナス・メカスに会いにゆく。「あなたはアンドレ・バザンですね」と云って立教大学の教室にはいると、グラサン姿の学生(黒沢さん?)がバザンである、という不条理。さらに、ゴダールも、メカスも同じ男により演じられ、カメラがぐるりと一周すれば、他の人物が登場してしまうゴダール・ジョーク。

四つ数えろ  1978

パロディとしてでしか、ヌーヴェル・ヴァーグを追跡できないのか。そんな諦念からか、それとも暴力的な破壊衝動からか、野蛮な意志に満ちた作品。音楽が急にとぎれ、かすれ声のモノローグが繰り返されのは、「彼女について知っている2,3の事柄」でしょう。

School Sounds   1978

60年代~70年代前期の政治の季節に、遅れて大学へ入ったパロディアス・ユニティは、形こそ大学闘争の文言、スタイルを踏襲しているが、くそまじめに、学食のきつねうどんと鳥うどんの値段を議論しているように、脱構築のパロディを演じ続ける。道化なのか、ゴダールなのか、とにかく映画には政治は関係ない、という姿勢は一貫している。銃を片手に、人質(?)を突き飛ばしながら歩く黒沢さんは嬉嬉としていた。

女の子はみんなふた子である  1980

ウェルメイドなオチまでつく秀作。双子の女の子をカットバックだけで見せてしまう、計算された演出。(失礼だが)ちゃんとおもしろいのだからスゴイ。心理学科の学生に心理療法テストをすると云われ、どんな大げさなモノかと思えば、女とベンチに寝っ転がって、無気力に質問に答えるだけ。この力の抜け方が、パロディアス・ユニティ全体に共通する時代性のような気がする。何も真剣にする必要ないでしょ、という感覚。モデルガンの銃を撃っても、決して血は流れないし、派手な音声効果をつけることもない。全共闘世代に対し、「何、一生懸命やってんの?」という冷めたギャグトーンが一貫している。

逃走前夜  1982

学生運動の決起集会をパロディ化。荒唐無稽と言ってもギャグセンスは必要で、学生たちが意味不明の行動を続ける室内シーンでも、それぞれの「バカ学生」の挙動がギャグとして機能するように配置されている。やっぱりキレる演出家だーー派手にぶちまければいいに違いないというだけのクストリッツァ「アンダーグランド」(これが笑えない)よりもキレていると云いたい。屋外シーンのロケット花火に向かって学生が突進を続けるのは、黒沢さんによるものだそう。勝手にしやがれシリーズにも継承されている。

大回転  1990

冒頭、川のフィックスショットに女性がすたすたと歩いてゆく。その足取りを辿るように茶色い鞄を持った男・三郎の後ろ姿がフレームインしてくる。まさにブレッソンだが、マネであろうと美しいものは美しい。知人曰く、ラルジャンの川音、犬の鳴き声まで使われている徹底ぶりらしい。田舎を後にした男は、美しい電車のショットとともに、「友達ひとりいない」東京を目指す。そこまでは美しいのだが、その後大都会のワイドショットの写真と、階段でひたすら寝続ける男の日々のモンタージュの出鱈目さ。映画はどんどん横滑りし、脱臼する。

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