【告知】『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』公開記念トークイベント 巨匠フレデリック・ワイズマンを語る

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2018年11月4日(日)、神保町ブックセンターにて開催!
映画ファン必聴、生ける伝説<フレデリック・ワイズマン>トークイベント

『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』 『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』場面1 『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』場面2『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』
© 2015 Moulins Films LLC All Rights Reserved アメリカを代表するドキュメンタリー映画の巨匠フレデリック・ワイズマン監督の40作目となる『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』が、渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開されている。同作品は、住民の約半数が海外生まれの移民の町・ニューヨークのジャクソンハイツにカメラを持ち込み、ジャクソンハイツのあらゆる場所や人のあり様をひたすらみつめた“町ドキュメンタリー”だ。
この『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』の公開を記念して、ワイズマンの編集室で3日間にわたりインタビューを敢行した映画監督・舩橋淳と、記念碑的ワイズマン本「全貌フレデリック・ワイズマン」の共編著者であるグラフィック・デザイナー鈴木一誌がワイズマンを語り尽くす、映画ファン必聴のトークイベントが神保町ブックセンターで開催される。
公開中の『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』と、アテネフランセ文化センターで開催中の『フレデリック・ワイズマンの足跡 Part.1 1967年-1985年』、さらに来年公開の『エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館』と、フレデリック・ワイズマンの作品に触れる機会が続くタイミングだけに、ワイズマン作品への理解を深める上でも有意義なイベントになること請け合いだ。

イベント詳細
2018年11月4日(日) 17:00〜19:00(受付開始16:15)
料金:1,500円(1ドリンク込み)
※『全貌フレデリック・ワイズマン』ご購入の方はドリンク代500円のみ
会場:神保町ブックセンター (東京都千代田区神田神保町2-3-1 岩波書店アネックス1F)
問い合わせ:03-6268-9064 ご予約は https://jacksonheights.peatix.com/

舩橋淳(映画監督) 代表作に『BIG RIVER』(2006)『桜並木の満開の下に』(2013)『フタバから遠く離れて』(2012)など。ポルトガルを舞台とした新作「ポルトの恋人たち 時の記憶」(主演:柄本祐、アナ・モレイラ)は11月全国公開。「全貌フレデリック・ワイズマン」(岩波書店)では全作品についての巻頭インタビューを行った。

鈴木一誌(グラフィック・デザイナー) 1981年、映画批評で第一回ダゲレオ出版賞。98年、講談社出版文化賞ブックデザイン賞。2011年に岩波書店より土本典昭との共編著となる大著「全貌フレデリック・ワイズマン」を出版。映画に関わる著作も多く、その他に「小川プロダクション『三里塚の夏』を観る」(編著)、『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』(澤井信一郎との共著)など。

【告知】 『ポルトの恋人たち~時の記憶』ヒロイン、アナ・モレイラ来日!柄本佑とマスタークラス開催決定!

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18 世紀のポルトガルと 21 世紀の日本を舞台に、3 人の俳優がそれぞれ 1 人 2 役に挑んだ異色のラブミステリー『ポルトの恋人たち〜時の記憶』。このたび、本作公開を記念し、ヒロインを演じたアナ・モレイラがポルトガルより来日、主演を務めた柄本佑と舩橋淳監督とともに映画美学校によるマスタークラスがアテネ・フランセ文化センター(御茶ノ水)で行われます。

マスタークラスでは、アナ・モレイラが若き日のヒロインを演じ日本でも話題となったミゲル・ゴメス監督の『熱波』、自身の短編監督作品『ウォーターパーク』、柄本佑監督の『ムーンライト下落合』を上映。
『映画における演技と演出』をテーマに講演が行われる予定。共に豊富な演技経験を重ね監督作品もあるポルトガルと日本の映画人ふたりの対話は貴重な機会になるだろう。

マスタークラス詳細
◆日時:2018 年 11 月 3 日(土)17:00-21:30 ◆会場:アテネ・フランセ文化センター(御茶ノ水)
17:00-上映 『熱波』2012 ミゲル・ゴメス監督(118 分/35mm/日本語字幕)
19:10-参考上映 『ムーンライト下落合』2017 柄本佑監督(30 分/デジタル)
『ウォーターパーク』2018 アナ・モレイラ監督(17 分/デジタル/日本語字幕)
20:00-マスタークラス
◆講師:アナ・モレイラ(俳優/ポルトガル)、柄本佑(俳優)舩橋淳(映画監督)
司会:市山尚三(映画プロデューサー)
◆参加資格:映画制作を志す方(スタッフ・キャストを問わず=自己申告制)
◆参加費:一般 1500 円(税込) ◆予約制:先着 80 名
◆申込方法:予約ページ(http://eigabigakkou.com/news/info/9880/)にて必要事項をご記入の上、送信して下さい。
映画美学校事務局からの返信を持って受付完了となります。※映画美学校生はカリキュラムの一環として行いますので参加費は不要。予め事務局に申込必要。

出演:柄本佑、アナ・モレイラ、アントニオ・ドゥランエス、中野裕太 製作:Bando á Parte, Cineric, Inc., Office Kitano
プロデューサー:ロドリゴ・アレイアス、エリック・ニアリ、市山尚三 脚本:村越繁
撮影:古屋幸一 編集:大重裕二 音楽:ヤニック・ドゥズィンスキ 監督・脚本・編集:舩橋淳
配給:パラダイス・カフェ フィルムズ 配給協力:朝日新聞社 協力:ポルトガル大使館
PG-12 公式サイト:porto-koibitotachi.com 【2018/日本=ポルトガル=アメリカ/139 分/シネスコ/5.1ch】
(C)2017『ポルトの恋人たち』製作委員会

『ポルトの恋人たち 時の記憶』11月10日公開決定!

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しばらくお待たせしました。

ようやく拙作の公開が決定しました。

ポルトガルと日本で撮影した新作は、邦題『ポルトの恋人たち 時の記憶』として、11月10日より公開されます。

原題は「LOVERS ON BORDERS」と長らく呼んでいたのですが、日本公開を機に邦題を考えました。他の拙作もそうなのですが、かつての洋画のように英題と邦題がまったく違ってもいいと考えており(「フタバから遠く離れて/NUCLEAR NATION」もそうでした…)、今回もその言語、文化にあった風情のタイトルを選んだつもりです。

また主演アナ・モレイラと柄本祐による、メインビジュアルも公開します!

3年もかかった作品なので、ぜひみなさんに見ていただきたいです!

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 18世紀のポルトガルと21世紀の日本を舞台に、3人の俳優がそれぞれ1人2役に挑んだラブミステリー『Lovers on Borders』が、『ポルトの恋人たち〜時の記憶』の邦題で11月10日より全国公開されることが決定し、ポスタービジュアルと場面写真が公開された。

 日本、ポルトガル、アメリカの3か国合作による本作は、オダギリジョー主演の日米合作『BIG RIVER』やドキュメンタリー『フタバから遠く離れて』2部作を手がけた舩橋淳監督が構想に3年かけて制作した集大成的な最新作。ポルトガルの世界遺産ギマランイスをはじめ、撮影は、ポルト、ブラガ、ペニシェ、静岡県浜松市で行われた。日本とポルトガルの合作映画は、パウロ・ローシャ監督の『恋の浮島』、ジョアン・マリオ・グリーリョ監督の『アジアの瞳』に続き本作が3作目であり、初の日本人監督作品となる。

 主演は、『素敵なダイナマイトスキャンダル』ほか主演作が相次ぐ柄本佑。18世紀のポルトガルパートでは、ほとんどセリフもない日本人奴隷、21世紀の静岡・浜松パートでは、ブラジル系移民の労働者のクビを平然と切るエリート会社員の2役を演じ分け、浜松パートでは、英語セリフにも初挑戦している。第62回ベルリン国際映画祭で国際映画批評家連盟賞とアルフレッド・バウアー賞を受賞したポルトガル映画『熱波』のアナ・モレイラと時代も国境も超え恋に身を焦がす役どころだ。映画好きとしても知られる柄本は、ポルトガルの巨匠、故マノエル・ド・オリヴェイラ監督を敬愛しており、『ポルトガル、ここに誕生す〜ギマランイス歴史地区』に登場するアフォンソ・エンリケの地を回ったほどの大ファン。くしくもそのプロデューサー、ロドリゴ・アレイアスとの縁につながった。

 また、英語、イタリア語、フランス語などを話す俳優の中野裕太の出演も明らかになった。約1か月半でポルトガル語を習得。日本人奴隷の仲間と、夢を抱いて浜松にやってきたブラジル移民役で新境地を見せた。

 公開されたポスタービジュアルでは、18世紀ポルトガルパートで柄本演じる宗次とモレイラ演じるマリアナが遥か海の向こうにある自由の地を見つめる。「時代を超えた愛と復讐の記憶たち」とのエモーショナルなコピーが添えられている。タイトルに添えられた椿の花も、劇中印象的に登場するモチーフだ。
柄本佑 コメント

1部と2部で同じことが繰り返され、過去に植えた椿の種が巨木となって、恋人たち2人を助けてくれる。1人2役をやっているというよりは、時代も場所も違うので、2本の映画を同時に撮っているという感じでした。
中野裕太 コメント

プロットを読んだ時から、佑君の役ではなく、自分の役をやりたい、と思っていました。ポルトガル編の四郎役は狂言回し的で、佑君との友情の中で2人の恋愛の応援側に回る。現代編では、幸四郎が主役かと思いきや、また狂言回しに戻って、幽霊になる。表現に幅があり、ある程度委ねられている部分があって、やりがいのある役だなと思いました。
舩橋淳監督 コメント

18世紀ポルトガルと21世紀の日本。信じるべきものを失った時代に生きる人々の話を、両国で描いてみると面白いのではと思いました。国も言語も社会制度も違う2つの時代を体験することにより、信じることとは何かをこの映画から考えて欲しいと思います。

■公開情報
『ポルトの恋人たち〜時の記憶』
11月10日よりシネマート新宿・心斎橋ほか全国公開
出演:柄本佑、アナ・モレイラ、アントニオ・ドゥランエス、中野裕太
プロデューサー:ロドリゴ・アレイアス、エリック・ニヤリ、市山尚三
監督・脚本・編集:舩橋淳
脚本:村越繁
撮影:古屋幸一
編集:大重裕二
音楽:ヤニック・ドゥズィンスキ
配給:パラダイス・カフェ フィルムズ
配給協力:朝日新聞社 協力:ポルトガル大使館
製作:Bando a Parte, Cineric, Inc., Office Kitano
2018/日本=ポルトガル=アメリカ/139分/シネスコ/5.1ch/PG-12
(c)2017『ポルトの恋人たち』製作委員会

引用元:
http://realsound.jp/movie/2018/08/post-239004.html

https://eiga.com/news/20180822/1/

Ophlus & Guitry

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「たそがれの女心」  “Madame de….”  Max Ophuls 1953

Ophuls作品について、誰もがその流麗なキャメラワークを語る。
そこには、カメラを動かすのがまず第一にあり、人物が早足で歩き、人がせわしなくリアクションを見せるのがデフォルトの世界がある。動き続けるという映画のフォルムがまずあって、場面内容が次に決まってゆくのではないかと思えるほど、Ophulsの芸術的選択は強固なものだ。

それをスタイルと言ってしまうと、矮小化しているように感じる。

人物たちの身のこなし、互いに余裕綽々で騙し合うという“優雅な”サスペンス、流れるような音楽の選択、壁を越え人々の集団を凌駕し、空間を飛ぶように動くキャメラ・・・全体へのmise en sceneが 有機的に連鎖している、まさに映画である。

「キャメラが動き続ける空間」がデフォルトである映画作家は、現代ではトニー・スコット、(サブウェイ123激突) やイーストウッドを思い浮かべてしまうが、これを50年代のアメリカとフランスで成立させてしまったというのが凄すぎる。

キャメラが動くべきか、フィックスで留まり続けるべきかという問題は、映画史的にみてあらたなフェーズに来ている気がする。だからこそ今Ophlusを考え直してみるのは、面白いかと。

なぜこのあまりにも過激な流麗さを追求したのか、とOphuls が生きていたら聞いてみたいものだ。Danielle Darrieux が本当に美しかったからだ、とでも言われるのがオチかもしれぬ。

「トランプ譚 」  サッシャ・ギトリ  (1936, 仏、81 min )

ギトリが自伝的に演じ、ギャンブルのいかさま師を演じる。
自信の小説「詐欺師の物語」を脚色、監督、主演した2作目とのこと。

最初、夕飯のChampignon(キノコ)を家族12人のうち、自分だけがビー玉を盗んだバツで食べれず、残り11人が食べて一挙に死んでしまうギャグには笑ったが、そのような視覚的ギャグが散りばめられている。

映画がトーキーになったとき、時代の最先端の表現、つまり語り言葉を肉体化したのが、ギトリだった。故にフランス語を使ったもっともフランス映画らしい作家ともいえるかもしれない。その正当な後継者はトリュフォーになるだろうか。ナレーションによる過去の語りは、言語的壮麗さがあってこそ成立するのだろう。

映画はいまここにある脅威を囁く

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「沖縄スパイ戦史」
監督:三上智恵 & 大矢英代

戦争になれば、国は民を守ってくれない。
それどころか、邪魔物扱いされ、情報漏洩源(=スパイ)として殺されてしまう。

この受け入れがたい真実を、歴史的事実に踏まえ立証するだけでなく、実はその背景にある「下々の民は犠牲になるしかない」「民衆は守るものでなく、利用するべきもの」という発想が、今日の自衛隊法にも脈々と受け継がれていると映画がはっきりと示すとき、見ている我々はただただ呆然とし、震撼するしかない。

戦争を過去のものとして安穏と見ていた自分が、実はその渦中にいることに気づき椅子から飛び上がる。これが映画において、戦争を描く意義だろう。

国家の目的の第一義は国民を守ること。これが情けないほど、どっこにも根付いていないのが日本なのだ。

国体保持のために、民が犠牲になるのは仕方ない、我慢するしかないというメンタリティは、沖縄の基地や、福島などの原発立地市町村という犠牲のシステムを生んだ。太平洋戦争で本土決戦の前に沖縄を防波堤にした思想は現在も継承されており、それどころかアメリカから見れば、対中国防衛圏の防波堤にもなっているという二重の犠牲の構図。

戦争に巻きこまれた当事者たちへの視線が素晴らしい。
戦禍に巻き込まれたら、被害者も加害者も、戦後とてつもない精神的苦痛を背負わざるを得ない。

沖縄戦で、ほとんど子供にしか見えない10代前半の少年兵を最前線に連れ込み、多数を殺した将校は、戦後悔恨に苛まれた。彼に出来ることはせいぜい、ソメイヨシノの苗木を沖縄に送ることだった。しかし、本土から送りつける餞別など、沖縄には必要ない。カンヒザクラのように沖縄の郷土に根ざし、共に生きてくれる隣人こそが大切なのだと映画は問いかける。

立派に散れという本土のソメイヨシノより、這いつくばってでも生きろと叫ぶ沖縄のカンヒザクラ。犠牲を強いる国体よりも、人生を選びとる民衆の意志こそ、最後に残るということを指し示しているかのようだ。

悲しいかな、日本において、国家は「民を守る」のではなく、「民を使う」ものという思想はずっと不変。

だから、国はけしからん!と国のせいにしていては何も変わらないことをこの映画は突きつけている。被害者意識ではなく、本当の意味で国民が権利意識に目覚めることが、国を変えてゆく、民主主義を育んでゆく、ということまで、本作は照射している気がする。 

それが泥臭く咲き続けるカンヒザクラに、託された思いであろう。

海を駆ける

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深田晃司 2018
避けようにも避けられない凄烈なスマトラの日差しを浴びつつ、地元のインドネシア人と、NPOで働くと思われる日本人と学生が、一瞬の偶然から運命 を共にしてゆく様が、驚くべき自然さをもって記録されている一本。ロメールの筆遣いを学んできた作家が、何も“演出していない”ようで、多くの偶然を“演 出してしまう”という高度なマジック。
 ファンタジーと宣伝で銘打たれているのは、そんな“演出されていない”かにみえる自然さの世界に、ふと海から降り立った謎の男(ディーン・フジオカ)が 引き起こす幾つかの“奇跡”からだと思われるが、彼がスピルバーグ的な世界をマジカルに豹変させてしまう地球外生物であるという印象が、実は誤った解釈で はないかと思い直すのは、画面に旧日本軍のトーチカが現れるときである。
ネタをばらすつもりはないが、「海を駈ける」は「逆走」だったとだけ言っておきたい。波の寄せる方向とは、正反対のベクトルに向かうこと。それは厭 が応にも時間の遡行を思わせ、フジオカ演じるあの異星人が、実はこの島を襲った大震災と津波の犠牲者、そしてトーチカの付近で命を落とした日本と南印系兵 士たちの場所から来たのではないか、と解釈したいという思いにかられる。
クリス、イルマ、サチコ、タカシという若い役者がすべて素晴らしい。フェリー上のシーンなどこちらがむず痒くなってしまう場面もあるが、性と不条理がある自然さをもって描かれてしまう手つきは、どうにも魅力的だ。
長く続く時間の蓄積と現在との接点をまるで風を切り、駈けぬけるような軽やかさと共存させてしまう、それはとても野心的だと言わねばなるまい。

「若い女 Femme Jeunne」

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レオノール・セライユ  97分 2017
@Institute Francais カイエ週間

精神が破綻し、壊れてしまった「若い女」が、その内実の全てを暴力的なまでにレンズにさらけ出し、熱量と感情と、そして同時にウィットに満ちた視線を見る者にぶつけてくる映画といえば良いだろうか。

J. キャサヴェテス「壊れゆく女A Woman Under the Influence」のように、包み隠さず、内面の揺れと葛藤をすべてこちらにぶつけて来る女性と向き合う我々は、女性がたとえ一歩も前進しなくても、とことん付き合うしかないと腹を決めるしかない。そんな濃密な覚悟へと見る者を引き込んでしまう磁力を纏っているという特別な作品。

主人公のポーラ演じるレティシア・ドッシュLaetitia Doschが傑出している。
最初は、ぶち切れて何度もドアに顔面を打ち付ける、狂ったブスという印象から、徐々にその荒くれた内面と知性が両立していることを気づかせてくれるという深み!

作家とレティシアが台本と演技に込めたあまりの熱量、彼女の吐く言葉の渦に圧倒されるしかない。傑作!

”Let the Sunshine In” Claire Denis

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「レット・ザ・サンシャイン・イン Let the Sunshine In」 Claire Denis

デプレシャンにせよ、ドゥニにせよ、みずからのミッドライフ・クライシスを何の躊躇いもなく映画にぶちこんでゆく作品が続いている。本人が実感できるリアルがそこにあるからやっているのだろうが、作家ごとに主人公との距離感が違うのがおもしろい。

Denisのこの作品は、主人公である女性現代画家(Jビノシュ)が作家本人の反映なのだろうが、離婚した後の幾多の恋がことごとくうまく行かず、救いようもなく破綻してゆく。それを客観的とは言わずとも、ある距離を置き対象化しているのがドゥニの映画だった。小津や黒澤をリメイクするほど日本映画に傾倒しているドゥニ(今回も「昭和残侠伝」の健さんのポスターが画廊になぜか張られている。)が、そんな距離感を日本映画から学んだのだろうか。

“Les fantômes d’Ismaël” イスマルの亡霊

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一方、デプレシャンは、自らのミッドライフ・クライシスを、マチュー・アマルリック演じる主人公の映画監督に完全同一化してしまっている。こちらは主人公との距離はゼロ。作家としての客観性とは絵空事の嘘だと言わんばかりに、自分の狂気と苦悶をすべて画面にぶつけまくるというデプレシャンの作家性は、誰もが熱狂した傑作「そして僕は恋をする」から変わらない。

画面がつねに緊張感に満ちみちた傑作というわけではなく、節操はなく支離滅裂でもあるが、それも込み込みでナイーブな内実をすべて熱くさらけ出し、映画への不器用な激情を恥じらうことなく吐露しまくることが、ある誠実さを持って見る者に伝わるとき、作家の愛らしさとして見る者の心を震わせる。それがデプレシャンの作家性ではないか。

Bob Dylan に合わせて、ダンスするMarion Cotillardのように、一回きりのエモーションを誠実に受け止め続ける彼を、やはり好きにならずにはいられない。

“Les fantômes d’Ismaël” イスマルの亡霊 2017
Arnaud Desplechin アルノー・デプレシャン
キャスト:Mathieu Amalric, Charlotte Gainsbourg, Marion Cotillard, Louis Garrel

「息衝く」 

2018 木村文洋監督
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3.11後に確かに訪れているはずだが、はっきりとわからないこの国の変容に向けて、アクチュアルな映画言語を紡ごうとする作家の手つき。

何かを批判するわけではない。
この社会を覆う息苦しさに口を閉ざしてしまった子どもたち、目的対象がはっきりしない毎日にもがいている大人たちの群像を見事に活写している。
このぼやっとした空気を掬いとるキャメラ、大きな時代に向けた視線が素晴らしい。

日本は確実に貧しくなっている。
それに真摯に向き合う映画が生まれてきた。