「若い女 Femme Jeunne」

April 16, 2018

C9SI-MWXUAA1QOC-1.jpg

レオノール・セライユ  97分 2017
@Institute Francais カイエ週間

精神が破綻し、壊れてしまった「若い女」が、その内実の全てを暴力的なまでにレンズにさらけ出し、熱量と感情と、そして同時にウィットに満ちた視線を見る者にぶつけてくる映画といえば良いだろうか。

J. キャサヴェテス「壊れゆく女A Woman Under the Influence」のように、包み隠さず、内面の揺れと葛藤をすべてこちらにぶつけて来る女性と向き合う我々は、女性がたとえ一歩も前進しなくても、とことん付き合うしかないと腹を決めるしかない。そんな濃密な覚悟へと見る者を引き込んでしまう磁力を纏っているという特別な作品。

主人公のポーラ演じるレティシア・ドッシュLaetitia Doschが傑出している。
最初は、ぶち切れて何度もドアに顔面を打ち付ける、狂ったブスという印象から、徐々にその荒くれた内面と知性が両立していることを気づかせてくれるという深み!

作家とレティシアが台本と演技に込めたあまりの熱量、彼女の吐く言葉の渦に圧倒されるしかない。傑作!

Advertisements

”Let the Sunshine In” Claire Denis

April 16, 2018

festivals_letthesunshinein__article-house-780x440.jpg

「レット・ザ・サンシャイン・イン Let the Sunshine In」 Claire Denis

デプレシャンにせよ、ドゥニにせよ、みずからのミッドライフ・クライシスを何の躊躇いもなく映画にぶちこんでゆく作品が続いている。本人が実感できるリアルがそこにあるからやっているのだろうが、作家ごとに主人公との距離感が違うのがおもしろい。

Denisのこの作品は、主人公である女性現代画家(Jビノシュ)が作家本人の反映なのだろうが、離婚した後の幾多の恋がことごとくうまく行かず、救いようもなく破綻してゆく。それを客観的とは言わずとも、ある距離を置き対象化しているのがドゥニの映画だった。小津や黒澤をリメイクするほど日本映画に傾倒しているドゥニ(今回も「昭和残侠伝」の健さんのポスターが画廊になぜか張られている。)が、そんな距離感を日本映画から学んだのだろうか。

“Les fantômes d’Ismaël” イスマルの亡霊

April 16, 2018

ismaels_ghosts_c_jean-claude_lother_why_not_productions-h_2017.jpg

一方、デプレシャンは、自らのミッドライフ・クライシスを、マチュー・アマルリック演じる主人公の映画監督に完全同一化してしまっている。こちらは主人公との距離はゼロ。作家としての客観性とは絵空事の嘘だと言わんばかりに、自分の狂気と苦悶をすべて画面にぶつけまくるというデプレシャンの作家性は、誰もが熱狂した傑作「そして僕は恋をする」から変わらない。

画面がつねに緊張感に満ちみちた傑作というわけではなく、節操はなく支離滅裂でもあるが、それも込み込みでナイーブな内実をすべて熱くさらけ出し、映画への不器用な激情を恥じらうことなく吐露しまくることが、ある誠実さを持って見る者に伝わるとき、作家の愛らしさとして見る者の心を震わせる。それがデプレシャンの作家性ではないか。

Bob Dylan に合わせて、ダンスするMarion Cotillardのように、一回きりのエモーションを誠実に受け止め続ける彼を、やはり好きにならずにはいられない。

“Les fantômes d’Ismaël” イスマルの亡霊 2017
Arnaud Desplechin アルノー・デプレシャン
キャスト:Mathieu Amalric, Charlotte Gainsbourg, Marion Cotillard, Louis Garrel

「息衝く」 

February 28, 2018

2018 木村文洋監督
Screen Shot 2018-02-28 at 11.49.38 AM.png

3.11後に確かに訪れているはずだが、はっきりとわからないこの国の変容に向けて、アクチュアルな映画言語を紡ごうとする作家の手つき。

何かを批判するわけではない。
この社会を覆う息苦しさに口を閉ざしてしまった子どもたち、目的対象がはっきりしない毎日にもがいている大人たちの群像を見事に活写している。
このぼやっとした空気を掬いとるキャメラ、大きな時代に向けた視線が素晴らしい。

日本は確実に貧しくなっている。
それに真摯に向き合う映画が生まれてきた。

「わたしたちの家」

February 7, 2018

maxresdefault.jpg

清原惟監督  2018年、80分

灰色の浜辺を歩く二人の中学生の少女。
曇った寒空の下、祭りが行われるというと遠い対岸の盛り場を眺めつつ、私たちにはどうせ縁もない場所と嘆息する二人の少女の佇まいを、しっとりと受け止めるショットを目にした時、傑作が生まれる予兆をびしびし感じた。一つずつのショットに何か、映画を発見してゆこうという瑞々しい好奇心に漲っており、見ている方も静かなフィックッスショットがベースであるにも関わらず、徐々に高まる興奮を抑えられない。

一つの家の空間で、パラレルワールドの如く、二つの異なる親密さの物語が展開する。一方は記憶を失った女と何やら怪しい政治活動に関わっている独り者の女の儚い友情。もう一方は、父を失い、母と二人で質素な暮らしを続ける前述の中学生の少女の日常。何がどうなるという、はっきりとした物語展開をわざと空白にし、第三の方向へと映画の時空をねじ曲げてゆこう作家の野心が突出した作品と言えようか。

とはいえ、コンセプチュアルなだけの実験作ではなく、記憶喪失の女のよるべもない寂寥と無力感。お誕生日会を開く少女と大人たちの間に流れる、暗い反抗心。母親との何気ない会話に立ちこめる少女の違和感、など非常に繊細なところを突いており、こちらも美しいショットの連鎖に身を任せるだけでなく、どこか針のような緊張感を持って身構えなければならぬ作品であった。凄まじい処女作。

2017年の映画・ベスト

December 30, 2017

お粗末ながら、わたくしめの2017年の映画ベストテンです。といっても、順位をつけるのは映画に反すると常日頃いっていますので、良かった映画のグループ分けだと見なしてください。

ーーーーまちがいなく傑作ーーーーー

24FRAMES    A. キアロスタミ 
希望のかなた    A. カウリスマキ
甘き人生      M. ベロッキオ
ELLE        P. バーホーベン
Paterson       J. ジャームッシュ
予兆 散歩する侵略者    黒沢清
Stranger by the Lake   A. ギロディ
    (製作年2013だが日本上映が今年) 
ファンさん       ワン・ビン
トトと二人の姉      A. ナナウ
泳ぎすぎた夜       D. マニヴェル & 五十嵐耕平

ーー首位グループには入らないが、傑作ーー

ローガン           J. マンゴールド
氷の下 The Conformist    蔡尚君
ありがとうトニ・エルドマン  M. アデ 
ライオンは今夜死ぬ       諏訪敦彦
息の跡             小森はるか
Ryuichi Sakamoto: CODA    S.N.シブル
沈黙 SILENCE         M. スコセッシ

あえて入れない)
ダンケルク      C. ノーラン
人生タクシー     J. パナヒ

どこにも属さぬ至高の別格)
牯嶺街少年殺人事件 4Kレストアバージョン   E. ヤン

ーーーーーーーーーーーーーー

上位は、作家による視点の強度を持った作品ばかり。

Youtube の映像が氾濫する今日において、誰でもなんでも動画を撮れてしまう。

しかし、世界に対する切り口 FRAMEを示すのは、鋭い知性と胆力がなければできない。

映画はこうなんだぞ、と静かに力強く語る作家たちの作品が残ってゆく、と思う2017年でした。

29253id_150_w1600_original.jpg

堀江氏発言「生活保護世帯への進学支援「無駄遣い」」は間違っている

December 12, 2017

今朝の朝日新聞/日刊スポーツ: 堀江貴文氏、生活保護世帯への進学支援「無駄遣い」
http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/Cfettp01712125414.html

この堀江氏の発言、2つの意味で間違っている。


「優秀な学生には返さなくて良い本当の奨学金がすでに支払われる枠組みがある」というが、給付型の奨学金は、ごく一部。しかも授業料、生活費を全部カバーしてくれるわけではない。日本の奨学金は、殆どが貸与型。しかもこれも全部カバーしてくれず半額以下が殆ど。
だから、低所得で優秀であっても大学など高等教育が保証されているとは全く言えないのだ。

大事な認識は、日本の奨学金が先進国の中でも圧倒的に最低レベルだということ。

欧州に比べると、天と地の違いである。
ドイツなどは外国からの移民も含め、授業料はなし。
アメリカは学費はバカ高いが、学生全体の約70%が奨学金を受けており(日本は10%以下!)、州政府の公的な給付型と、スタンドフォード奨学金の無利子貸与型と、それでも足りない学生のためのパーキンス奨学金(利子あり貸与型)の三段階を併用でき、どんなに低所得でも学費&生活費をカバーしている。


「税金で高等教育をあまり役に立たない人に施すのは間違ってる」
→これは、教育の機会均等の理念を真っ向から否定する、エリート主義の選民思想で、低所得層の個人だけでなく、長い目でみると社会と国そのものを荒廃させる。
バカは教育しなくていい。早いうちから篩(ふるい)にかけてしかるべき所で働かせるのが社会のため、というのは、いかにも前近代的な二元論。

教育の効果は個人に帰属するのではなく、国家・社会に還元される。

そんな理念を掲げて、社会を形作ってゆくべきなのだ。
(原発ナシの生き方を選ぶ、という理念を掲げて、脱原発したドイツは、まさしく日本の逆で、理念をまず大切にする)

これは日本の教育システム=政治の根本的問題であり、堀江氏の非では全くないが、そんな理念意識も希薄で、機会均等が全く整わない日本の狭い社会のなかで、弱いものを蹴落とすセコい選民思想は、さらに社会をやせ細らせてゆくのだ。

だから、「バカとエリート」の選別・最適化という一見正しいかに聞こえる考えは、間違っている。

まずは、高等教育にも機会均等を成し遂げるべきであり、アメリカの高額授業料&奨学金フル補充型に向かいつつある現状よりは、ドイツ型の無償型に行くべきだと、僕は思っている。

24 FRAMES Abbas Kiarostmai

November 27, 2017

24frames_kiarostami_photo4.jpg

FILMeX最終日にいそいそとキアロスタミの遺作を拝見。
真の傑作。今年みた中でナンバーワンかもしれない。

映画と詩の関係が、「マルメロの陽光」を思い出させた。
映画とは、画面の「枠=フレーム」という四角い物理的制約のなかで起きる限られた表象現象である、ということにくわえ、
時間にも一つの塊の枠組みを与えるという意味で、時間軸方向のFRAMEを与えるのも、映画であるということをまざまざと感じさせる作品だった。

本作は、24の1シーン1ショットのFRAME を提示する。
殆ど静止画のような止まった時間を見つめながら、その合間合間に見てゆく時間の流れを見る者が想像力によって埋めていく作業。そこに映画が生まれてゆく。個人的には、FRAME6,21,24がもっとも美しく、この映画の本質を突くショットであるように思えた。どれも室内から外への視線、鳥、木、音楽、が共通している。
一回見た限りだが、記憶の限り描写してみる。

FRAME 1 一幅の絵画。猟師が猟犬を連れ、雪原の下に望む町に向かっている。静止画かと思っていると、家から煙が立ち上り、犬が歩き出し、鳥が飛び出し、奥の道路で牛が歩き出す。徐々に動画になってゆく。

FRAME 2 走行する車窓。自動でウィーンとあく。
そこでは雪の中、馬二頭が争っている。

FRAME3 海岸に横たわる全く動かない白黒の物体。
よく見ると呼吸して揺れている牛だった。
そこへ牛の群れが通りかかる。

FRAME4 雪原をトナカイが横切ってゆく。
FRAME5 雪原、子鹿が茂みの真ん中にじっとしている。
動き出したとき、バンと打たれた?もしくは罠にかかって、 倒れる。
FRAME6 白黒。室内の窓。からすが窓際に止まっており、外には美しい木の影。女性ボーカルの音楽が室内に鳴り響く。
FRAME7 海際の遊歩道の手すり。からすが二匹〜3匹止まっている。
FRAME8  雪原(海の際?)、大量の小鳥が群れをなして狂ったように飛んでゆく。
FRAME9 岩の丸い穴の向こうにライオンが二頭。どしゃぶりの雨。
FRAME10 豪雪の中、羊が丸くなり集まっている。犬が一匹。
FRAME11 豪雪の中、オオカミ同士がじゃれ合っている。
FRAME12  温かい色彩。障子があり向こうに芝生。障子の影に鳩。
何匹もの漁類が横切ってゆく。
FRAME13 海。カモメが何匹も居て、そのうちばーん!と一匹が撃ち落とされる。 そこに仲間のカモメがどんどん寄ってくる。
FRAME14 町の近く。コンクリートの四角い枠組みの奥に道路が見える。 そこをバイクや自動車が通り過ぎ、その度に小鳥が測道へ逃げる。
FRAME15 パリのエッフェル塔。シリア人難民?5人の後ろ姿。
段々日が暮れ、明かりが付く。ギターを持って歌う女性がくる。
FRAME16 海岸線の廃墟。奥にボートが止めてある。ガチョウが出入りする。
FRAME17 雪原。木の間に雀がいる。ネコがやってきて捕まえ、くわえて持ってゆく。
FRAME18 雪原。ムクドリが足をいろいろ動かし、隣の仲間と共に遊ぶ。
FRAME19 雪原の牛。中央に一匹が鎮座し、その奥や手前を群れが横切って行く。 白黒の中、吹雪、霧が美しいトーン。
FRAME20 窓の外を通した、外は明るく静かな雪原。
FRAME21 部屋の中。室内。枠外で人が入ってきて、カーテンを自動で空け、音楽がなる。音響空間がいい。外に木が揺れ、からすが窓際に止まる。美しい。
FRAME22 雪原にいる鳥? とりとめもなく動いている。
FRAME23 木こりが通んだ木材。その奥に二本、木が見える。順番に切り倒される。木材の上にインコのような発色の良い鳥。
FRAME24 室内。窓際の机にコンピューターがあり、映像編集がされている。モノクロームのハリウッド映画(題名不明、知りたい!)のラブシーン。男女が抱き合い、女が腕を男の首に廻す瞬間が、スローモーションで再生されている。おそらくレンダリングの最中なのだろう。1フレーム1フレームを、刻み込むように示すモニター。窓の外では雪が降り、木々が揺れ、夜は更けてゆく。

NIGHTFALL / Jacques Tourneur

November 24, 2017

Nightfall01.jpg

NIGHTFALL Jacques Tourneur 1956 80分 
Columbia Pictures
Aldo Ray (Inglorious Bastardsのブラピ!!), Anne Bancroft,

東京フィルメックスのジャック・ターナー特集ではじめて拝見。

強盗たちが奪った大金のバッグを取り違えたために、主人公の商業デザイナーの男が悪者たちに追われる羽目になるというステレオタイプの「犯罪巻き込まれもの」であるにも拘らず、ターナーの手に掛かるとここまで美しく、詩的に、魅惑的になるものかと嘆息してしまう。
誰もがどこか影を抱えたキャラクターで、声を荒げることなく、しゃがれたハスキーボイスでぼそぼそ呟く。分かりやすく明るい性質の人間はだいたい端役に追いやられ、主人公は悪者だろうが、善人だろうが、屈折した性格ばかりでしょせん陽の当たる場所には行くことはないだろうという諦念を抱えた人物だ。陰影を効かせた空間設計(撮影はBurnett Guffey!)と相まり、エニグマティックな謎が深まるばかりのドラマが展開する。
同特集「I walked with a Zombie 私はゾンビと歩いた!」(1943)の上映後で、黒沢清監督が、フィルム・ノワールの定義とは「あれこれ具体的なディテールや挿話が展開するのだが、それが全て合わさると壮大な謎、不可解な闇となり、もはや世界は解読不可能、もうそのままにしておいた方がよい、と恐れおののいてしまう」映画(註:ざっくりした記憶)と話しておられたが、「The Big Sleep三つ数えろ」(H・ホークス)まではいかないにしろ、様々な細部がどこか犯罪のニオイのする闇に繋がっているように感じられ、主人公(Aldo Ray)はもはや逃げられまいという絶望を漂わせているあたりが本当に痺れる。  
 画面に漂う荒涼感への感性はただものではなく、例えば前半、追っ手の悪者二人にAldo Rayが鉄塔のある湾岸地帯(川岸かも?)にしょっぴかれ、殴られ脅される場面に漲っていた寂寥さはどうだろう。人知れぬ水際というロケーションの美しさは、どこか黒沢清監督の「叫び」を思い出してしまった。

Chris Fujiwara がフィルメックスのパンフに寄せた短めの論考で、ターナー映画の魅力は、ベッドタイムに子どもへ物語を読み聞かせ、心惹かれる体験に似ていると指摘していた。夢か現実か分からぬ、謎に満ちた冒険、魔術、異様なものが頻出し、緊張と期待で観客を虜にするという。(彼のターナー論モノグラフィの副題は、”The Cinema of Nightfall” である!)
 夢か現(うつつ)か、生か死か(ゾンビ)、光か闇か。
どちらがどちらだという結論を決して提示することなく、荒涼とした寂しい場所で人々が途方に暮れつつ、謎を抱えたまま生きてゆく。ジャック・ターナーは、映画にしかありえない詩的な往復運動を見せながら、我々を魅了し続ける。

bag.jpg

ライオンは今夜死ぬ  

October 31, 2017

957EF6F3-396F-4FAA-8D42-FB9582F863B4.jpg

LE LION EST MORT CE SOIR.
2017年 諏訪敦彦監督

映画を撮ることは、偶然を必然とする作業である。
なぜその映画を撮るのかという理由は、作品ごとに様々であり、プロデューサーがたまたま運用できる資金を持ち合わせていたり、売れ線の原作小説の映画化ライツを獲得できたりなど現実的な要因もあれば、作家がある俳優に出会ったり、ある題材に遭遇することでそこから、物語が紡ぎだされたりする純作家的プロセスもあるだろうし、またさらに、映画作家個人の人間関係や映画外の活動、つまり作家の人生そのものが起因し、映画を「撮らざるをえない」状況に陥ることさえもある。
いずれにせよ、どんな状況から映画が立ち起こったかは関係なく、作家たちはそれがさも「出来るべくして出来た」完成品としての映画に仕立てる作業を一手に請け負う。見る人間は、その作家がどんな邂逅を巡りめぐってきたのかは知る由もなく、スクリーンに照射された映画を、一つの物語、一つの世界として受け入れるからである。
「ライオンは今夜死ぬ」は、作家諏訪敦彦を取り巻く様々な偶然がキャメラによって繋ぎ止められ、見たことのないような出逢い、化学反応を繰り返してゆく様が、ドキュメンタリーのごとく記録され、それがあろうことか作品として成立してしまうという、撮影のプロセス自身が映画の背骨になってしまった奇跡のような作品といえる。
 大学や「こども映画教室」で教育者として映画を背負ってきたこと、ジャン=ピエール・レオーに出逢い、彼の存在自体が生きる映画史に感じ入ってしまったこと、リュミエール兄弟が撮影したラ・シオタ駅をはじめとする南仏の光の映画史的蓄積に刺激を受けたことなど、様々な偶然をあたかも至極当然であったような身振りで一つ一つ繋いでゆく。諏訪のその手つきが映画を生きることそのものになっている。換言すれば、人生の細部の豊かさがこぼれ落ち、すり抜けてしまう前に受け止める網の目こそ、映画であるとも言えよう。
 特にジャン=ピエール・レオーの言葉や歌(それは諏訪でなく、俳優自身のものであるそうだ)に啓発され、南仏で撮影を続けている映画内映画のクルーや、これもまた映画内映画教室の子どもたちが反応してゆくさまが素晴らしい。かつては映画の俳優だったのかと子どもに尋ねられ、かつては良い映画に出逢った、それに今も俳優だ、と答えるジャン=ピエール・レオーの、眉をうじうじと動かす目つき、口を尖らせるような口ぶりを目にする我々は、そこにヌーヴェルバーグの記憶を読み取りつつ、映画史のドキュメンタリーが眼前でまざまざと進行していることに驚く。ジャン=ピエール・レオーを描く上で、カウリスマキも、ツァイミンリャンも挑戦し得なかったアプローチを選んだ、諏訪敦彦の野心は凄まじい。
 (おぼろげな記憶で書くが)子どもたちの撮った映画内映画を見ながら、「映画をしかめっ面で撮る人間も多いが、これには映画をつくる喜びがある」という時のレオーの顔、子どもたちの顔は、自然という語彙がもはや不自然に思えてくるような驚くべき自然さを湛えており、それこそ「偶然」が、映画としての「必然」になった時間であった。奇跡というしかない時間を生み出した諏訪の演出は、「クローズアップ」を撮ってしまったキアロスタミのように、人生と映画を出来るかぎり接近させる臨界点を見出だしている。