Ophlus & Guitry

July 16, 2018

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「たそがれの女心」  “Madame de….”  Max Ophuls 1953

Ophuls作品について、誰もがその流麗なキャメラワークを語る。
そこには、カメラを動かすのがまず第一にあり、人物が早足で歩き、人がせわしなくリアクションを見せるのがデフォルトの世界がある。動き続けるという映画のフォルムがまずあって、場面内容が次に決まってゆくのではないかと思えるほど、Ophulsの芸術的選択は強固なものだ。

それをスタイルと言ってしまうと、矮小化しているように感じる。

人物たちの身のこなし、互いに余裕綽々で騙し合うという“優雅な”サスペンス、流れるような音楽の選択、壁を越え人々の集団を凌駕し、空間を飛ぶように動くキャメラ・・・全体へのmise en sceneが 有機的に連鎖している、まさに映画である。

「キャメラが動き続ける空間」がデフォルトである映画作家は、現代ではトニー・スコット、(サブウェイ123激突) やイーストウッドを思い浮かべてしまうが、これを50年代のアメリカとフランスで成立させてしまったというのが凄すぎる。

キャメラが動くべきか、フィックスで留まり続けるべきかという問題は、映画史的にみてあらたなフェーズに来ている気がする。だからこそ今Ophlusを考え直してみるのは、面白いかと。

なぜこのあまりにも過激な流麗さを追求したのか、とOphuls が生きていたら聞いてみたいものだ。Danielle Darrieux が本当に美しかったからだ、とでも言われるのがオチかもしれぬ。

「トランプ譚 」  サッシャ・ギトリ  (1936, 仏、81 min )

ギトリが自伝的に演じ、ギャンブルのいかさま師を演じる。
自信の小説「詐欺師の物語」を脚色、監督、主演した2作目とのこと。

最初、夕飯のChampignon(キノコ)を家族12人のうち、自分だけがビー玉を盗んだバツで食べれず、残り11人が食べて一挙に死んでしまうギャグには笑ったが、そのような視覚的ギャグが散りばめられている。

映画がトーキーになったとき、時代の最先端の表現、つまり語り言葉を肉体化したのが、ギトリだった。故にフランス語を使ったもっともフランス映画らしい作家ともいえるかもしれない。その正当な後継者はトリュフォーになるだろうか。ナレーションによる過去の語りは、言語的壮麗さがあってこそ成立するのだろう。

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映画はいまここにある脅威を囁く

July 10, 2018

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「沖縄スパイ戦史」
監督:三上智恵 & 大矢英代

戦争になれば、国は民を守ってくれない。
それどころか、邪魔物扱いされ、情報漏洩源(=スパイ)として殺されてしまう。

この受け入れがたい真実を、歴史的事実に踏まえ立証するだけでなく、実はその背景にある「下々の民は犠牲になるしかない」「民衆は守るものでなく、利用するべきもの」という発想が、今日の自衛隊法にも脈々と受け継がれていると映画がはっきりと示すとき、見ている我々はただただ呆然とし、震撼するしかない。

戦争を過去のものとして安穏と見ていた自分が、実はその渦中にいることに気づき椅子から飛び上がる。これが映画において、戦争を描く意義だろう。

国家の目的の第一義は国民を守ること。これが情けないほど、どっこにも根付いていないのが日本なのだ。

国体保持のために、民が犠牲になるのは仕方ない、我慢するしかないというメンタリティは、沖縄の基地や、福島などの原発立地市町村という犠牲のシステムを生んだ。太平洋戦争で本土決戦の前に沖縄を防波堤にした思想は現在も継承されており、それどころかアメリカから見れば、対中国防衛圏の防波堤にもなっているという二重の犠牲の構図。

戦争に巻きこまれた当事者たちへの視線が素晴らしい。
戦禍に巻き込まれたら、被害者も加害者も、戦後とてつもない精神的苦痛を背負わざるを得ない。

沖縄戦で、ほとんど子供にしか見えない10代前半の少年兵を最前線に連れ込み、多数を殺した将校は、戦後悔恨に苛まれた。彼に出来ることはせいぜい、ソメイヨシノの苗木を沖縄に送ることだった。しかし、本土から送りつける餞別など、沖縄には必要ない。カンヒザクラのように沖縄の郷土に根ざし、共に生きてくれる隣人こそが大切なのだと映画は問いかける。

立派に散れという本土のソメイヨシノより、這いつくばってでも生きろと叫ぶ沖縄のカンヒザクラ。犠牲を強いる国体よりも、人生を選びとる民衆の意志こそ、最後に残るということを指し示しているかのようだ。

悲しいかな、日本において、国家は「民を守る」のではなく、「民を使う」ものという思想はずっと不変。

だから、国はけしからん!と国のせいにしていては何も変わらないことをこの映画は突きつけている。被害者意識ではなく、本当の意味で国民が権利意識に目覚めることが、国を変えてゆく、民主主義を育んでゆく、ということまで、本作は照射している気がする。 

それが泥臭く咲き続けるカンヒザクラに、託された思いであろう。

海を駆ける

July 5, 2018

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深田晃司 2018
避けようにも避けられない凄烈なスマトラの日差しを浴びつつ、地元のインドネシア人と、NPOで働くと思われる日本人と学生が、一瞬の偶然から運命 を共にしてゆく様が、驚くべき自然さをもって記録されている一本。ロメールの筆遣いを学んできた作家が、何も“演出していない”ようで、多くの偶然を“演 出してしまう”という高度なマジック。
 ファンタジーと宣伝で銘打たれているのは、そんな“演出されていない”かにみえる自然さの世界に、ふと海から降り立った謎の男(ディーン・フジオカ)が 引き起こす幾つかの“奇跡”からだと思われるが、彼がスピルバーグ的な世界をマジカルに豹変させてしまう地球外生物であるという印象が、実は誤った解釈で はないかと思い直すのは、画面に旧日本軍のトーチカが現れるときである。
ネタをばらすつもりはないが、「海を駈ける」は「逆走」だったとだけ言っておきたい。波の寄せる方向とは、正反対のベクトルに向かうこと。それは厭 が応にも時間の遡行を思わせ、フジオカ演じるあの異星人が、実はこの島を襲った大震災と津波の犠牲者、そしてトーチカの付近で命を落とした日本と南印系兵 士たちの場所から来たのではないか、と解釈したいという思いにかられる。
クリス、イルマ、サチコ、タカシという若い役者がすべて素晴らしい。フェリー上のシーンなどこちらがむず痒くなってしまう場面もあるが、性と不条理がある自然さをもって描かれてしまう手つきは、どうにも魅力的だ。
長く続く時間の蓄積と現在との接点をまるで風を切り、駈けぬけるような軽やかさと共存させてしまう、それはとても野心的だと言わねばなるまい。

「若い女 Femme Jeunne」

April 16, 2018

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レオノール・セライユ  97分 2017
@Institute Francais カイエ週間

精神が破綻し、壊れてしまった「若い女」が、その内実の全てを暴力的なまでにレンズにさらけ出し、熱量と感情と、そして同時にウィットに満ちた視線を見る者にぶつけてくる映画といえば良いだろうか。

J. キャサヴェテス「壊れゆく女A Woman Under the Influence」のように、包み隠さず、内面の揺れと葛藤をすべてこちらにぶつけて来る女性と向き合う我々は、女性がたとえ一歩も前進しなくても、とことん付き合うしかないと腹を決めるしかない。そんな濃密な覚悟へと見る者を引き込んでしまう磁力を纏っているという特別な作品。

主人公のポーラ演じるレティシア・ドッシュLaetitia Doschが傑出している。
最初は、ぶち切れて何度もドアに顔面を打ち付ける、狂ったブスという印象から、徐々にその荒くれた内面と知性が両立していることを気づかせてくれるという深み!

作家とレティシアが台本と演技に込めたあまりの熱量、彼女の吐く言葉の渦に圧倒されるしかない。傑作!

”Let the Sunshine In” Claire Denis

April 16, 2018

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「レット・ザ・サンシャイン・イン Let the Sunshine In」 Claire Denis

デプレシャンにせよ、ドゥニにせよ、みずからのミッドライフ・クライシスを何の躊躇いもなく映画にぶちこんでゆく作品が続いている。本人が実感できるリアルがそこにあるからやっているのだろうが、作家ごとに主人公との距離感が違うのがおもしろい。

Denisのこの作品は、主人公である女性現代画家(Jビノシュ)が作家本人の反映なのだろうが、離婚した後の幾多の恋がことごとくうまく行かず、救いようもなく破綻してゆく。それを客観的とは言わずとも、ある距離を置き対象化しているのがドゥニの映画だった。小津や黒澤をリメイクするほど日本映画に傾倒しているドゥニ(今回も「昭和残侠伝」の健さんのポスターが画廊になぜか張られている。)が、そんな距離感を日本映画から学んだのだろうか。

“Les fantômes d’Ismaël” イスマルの亡霊

April 16, 2018

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一方、デプレシャンは、自らのミッドライフ・クライシスを、マチュー・アマルリック演じる主人公の映画監督に完全同一化してしまっている。こちらは主人公との距離はゼロ。作家としての客観性とは絵空事の嘘だと言わんばかりに、自分の狂気と苦悶をすべて画面にぶつけまくるというデプレシャンの作家性は、誰もが熱狂した傑作「そして僕は恋をする」から変わらない。

画面がつねに緊張感に満ちみちた傑作というわけではなく、節操はなく支離滅裂でもあるが、それも込み込みでナイーブな内実をすべて熱くさらけ出し、映画への不器用な激情を恥じらうことなく吐露しまくることが、ある誠実さを持って見る者に伝わるとき、作家の愛らしさとして見る者の心を震わせる。それがデプレシャンの作家性ではないか。

Bob Dylan に合わせて、ダンスするMarion Cotillardのように、一回きりのエモーションを誠実に受け止め続ける彼を、やはり好きにならずにはいられない。

“Les fantômes d’Ismaël” イスマルの亡霊 2017
Arnaud Desplechin アルノー・デプレシャン
キャスト:Mathieu Amalric, Charlotte Gainsbourg, Marion Cotillard, Louis Garrel

「息衝く」 

February 28, 2018

2018 木村文洋監督
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3.11後に確かに訪れているはずだが、はっきりとわからないこの国の変容に向けて、アクチュアルな映画言語を紡ごうとする作家の手つき。

何かを批判するわけではない。
この社会を覆う息苦しさに口を閉ざしてしまった子どもたち、目的対象がはっきりしない毎日にもがいている大人たちの群像を見事に活写している。
このぼやっとした空気を掬いとるキャメラ、大きな時代に向けた視線が素晴らしい。

日本は確実に貧しくなっている。
それに真摯に向き合う映画が生まれてきた。

「わたしたちの家」

February 7, 2018

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清原惟監督  2018年、80分

灰色の浜辺を歩く二人の中学生の少女。
曇った寒空の下、祭りが行われるというと遠い対岸の盛り場を眺めつつ、私たちにはどうせ縁もない場所と嘆息する二人の少女の佇まいを、しっとりと受け止めるショットを目にした時、傑作が生まれる予兆をびしびし感じた。一つずつのショットに何か、映画を発見してゆこうという瑞々しい好奇心に漲っており、見ている方も静かなフィックッスショットがベースであるにも関わらず、徐々に高まる興奮を抑えられない。

一つの家の空間で、パラレルワールドの如く、二つの異なる親密さの物語が展開する。一方は記憶を失った女と何やら怪しい政治活動に関わっている独り者の女の儚い友情。もう一方は、父を失い、母と二人で質素な暮らしを続ける前述の中学生の少女の日常。何がどうなるという、はっきりとした物語展開をわざと空白にし、第三の方向へと映画の時空をねじ曲げてゆこう作家の野心が突出した作品と言えようか。

とはいえ、コンセプチュアルなだけの実験作ではなく、記憶喪失の女のよるべもない寂寥と無力感。お誕生日会を開く少女と大人たちの間に流れる、暗い反抗心。母親との何気ない会話に立ちこめる少女の違和感、など非常に繊細なところを突いており、こちらも美しいショットの連鎖に身を任せるだけでなく、どこか針のような緊張感を持って身構えなければならぬ作品であった。凄まじい処女作。

2017年の映画・ベスト

December 30, 2017

お粗末ながら、わたくしめの2017年の映画ベストテンです。といっても、順位をつけるのは映画に反すると常日頃いっていますので、良かった映画のグループ分けだと見なしてください。

ーーーーまちがいなく傑作ーーーーー

24FRAMES    A. キアロスタミ 
希望のかなた    A. カウリスマキ
甘き人生      M. ベロッキオ
ELLE        P. バーホーベン
Paterson       J. ジャームッシュ
予兆 散歩する侵略者    黒沢清
Stranger by the Lake   A. ギロディ
    (製作年2013だが日本上映が今年) 
ファンさん       ワン・ビン
トトと二人の姉      A. ナナウ
泳ぎすぎた夜       D. マニヴェル & 五十嵐耕平

ーー首位グループには入らないが、傑作ーー

ローガン           J. マンゴールド
氷の下 The Conformist    蔡尚君
ありがとうトニ・エルドマン  M. アデ 
ライオンは今夜死ぬ       諏訪敦彦
息の跡             小森はるか
Ryuichi Sakamoto: CODA    S.N.シブル
沈黙 SILENCE         M. スコセッシ

あえて入れない)
ダンケルク      C. ノーラン
人生タクシー     J. パナヒ

どこにも属さぬ至高の別格)
牯嶺街少年殺人事件 4Kレストアバージョン   E. ヤン

ーーーーーーーーーーーーーー

上位は、作家による視点の強度を持った作品ばかり。

Youtube の映像が氾濫する今日において、誰でもなんでも動画を撮れてしまう。

しかし、世界に対する切り口 FRAMEを示すのは、鋭い知性と胆力がなければできない。

映画はこうなんだぞ、と静かに力強く語る作家たちの作品が残ってゆく、と思う2017年でした。

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堀江氏発言「生活保護世帯への進学支援「無駄遣い」」は間違っている

December 12, 2017

今朝の朝日新聞/日刊スポーツ: 堀江貴文氏、生活保護世帯への進学支援「無駄遣い」
http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/Cfettp01712125414.html

この堀江氏の発言、2つの意味で間違っている。


「優秀な学生には返さなくて良い本当の奨学金がすでに支払われる枠組みがある」というが、給付型の奨学金は、ごく一部。しかも授業料、生活費を全部カバーしてくれるわけではない。日本の奨学金は、殆どが貸与型。しかもこれも全部カバーしてくれず半額以下が殆ど。
だから、低所得で優秀であっても大学など高等教育が保証されているとは全く言えないのだ。

大事な認識は、日本の奨学金が先進国の中でも圧倒的に最低レベルだということ。

欧州に比べると、天と地の違いである。
ドイツなどは外国からの移民も含め、授業料はなし。
アメリカは学費はバカ高いが、学生全体の約70%が奨学金を受けており(日本は10%以下!)、州政府の公的な給付型と、スタンドフォード奨学金の無利子貸与型と、それでも足りない学生のためのパーキンス奨学金(利子あり貸与型)の三段階を併用でき、どんなに低所得でも学費&生活費をカバーしている。


「税金で高等教育をあまり役に立たない人に施すのは間違ってる」
→これは、教育の機会均等の理念を真っ向から否定する、エリート主義の選民思想で、低所得層の個人だけでなく、長い目でみると社会と国そのものを荒廃させる。
バカは教育しなくていい。早いうちから篩(ふるい)にかけてしかるべき所で働かせるのが社会のため、というのは、いかにも前近代的な二元論。

教育の効果は個人に帰属するのではなく、国家・社会に還元される。

そんな理念を掲げて、社会を形作ってゆくべきなのだ。
(原発ナシの生き方を選ぶ、という理念を掲げて、脱原発したドイツは、まさしく日本の逆で、理念をまず大切にする)

これは日本の教育システム=政治の根本的問題であり、堀江氏の非では全くないが、そんな理念意識も希薄で、機会均等が全く整わない日本の狭い社会のなかで、弱いものを蹴落とすセコい選民思想は、さらに社会をやせ細らせてゆくのだ。

だから、「バカとエリート」の選別・最適化という一見正しいかに聞こえる考えは、間違っている。

まずは、高等教育にも機会均等を成し遂げるべきであり、アメリカの高額授業料&奨学金フル補充型に向かいつつある現状よりは、ドイツ型の無償型に行くべきだと、僕は思っている。