async  あるいは 草の音

April 10, 2017

Solaris_Tarkovski_3.jpg

僕は、映画でも音楽でも作品を鑑賞するときはできるだけ予備知識を持たずに
向かい合うようにしている。パンフを読んだり、ネットで検索して、おもしろいかどうか値踏みしてから見る/聞くという傾向もあまり好きではない。ある一つのexpectation/期待にそって、作品を鑑賞するのは作り手にとって失礼だし、アートとはそもそも自己完結しており、何も知らない人に向けて開かれているべきと思うからだ。

というわけで、坂本龍一さんの新作「async」も何も予習もせず、何も情報を取り込まず、まっさらなCDを購入して聴いた。(教授が新作に取り組んでるというのは勿論あちこちで耳にしていたが、内容については耳を塞いでいたというのが正確か。)まず最初に通してtrack 01 からtrack14まで聴いて思ったのは、映像的な奥行きがある作品だな、ということ。無数の惑星がパースペクティブの果てまでつづく宇宙空間に身を委ねながら、ゆるりと視界が歪み、拡張してゆくのをそのまま受け止め、呼吸するような。音楽が三次元的な奥行きへ、聴くものを導いてゆくといったらよいだろうか。まるでタルコフスキーだ、と直感した。

現にタイトルを見るとsolari, stakra, walker, のように、タルコフスキー映画のような曲題がある。これは!と思って、ネットで検索していると、教授が「架空のタルコフスキー映画の音楽」と言っているのを発見。やはり!と手を打った。

実際、この音楽がついた映画こそ見てみたいと思わせるものだった。それはネットであがる動画ではなく、New York でいうとLincoln Center, ベルリンでいうとBelinale Palast、東京でいうとピカデリー系劇場の巨大なスクリーンで上映される映画である。壮大で揺るぎない時間の流れ、一つの世界がそこにあり、音響がその世界のムードを醸成し、人を誘うような。

映像的奥行きにおいては、Track 5の”walker”は傑出している。冬の凍てついたロシアの荒野を、ブーツ姿の男がザクザクと歩を進め、湿地帯の泥地、草むらを分け入ってゆく。とてつもなく芳ばしい(!)草の匂いや、冷えきった大気を覆う霧が素肌に染み込んでくるよう。この男はどこへゆくのだろうか。そこにある時間の持続が、宇宙の摂理そのものにつながっているような、引き延ばされたeternityを饗応させるものだった。

タルコフスキーの言葉で、artistic freedomを否定した言質がある。

I therefore find it very hard to understand it when artists talk about absolute creative freedom. I don’t understand what is meant by that sort of freedom, for it seems to me that if you have chosen artistic work you find yourself bound by chains of necessity, fettered by the tasks you set yourself and by your own artistic vocation. Everything is conditioned by necessity of one kind or another. (Andrey Tarcovsky “Sculpting in Time” より)

アートとは、作り手の内的な葛藤のすべてを反映させたものであるべきであり、それは自由に表現できるというよりも、すべてが必要性の鎖でつながっているものである、という考え。アーティスト自身の生々しい内なる声が、表現に昇華されるとき、それは本人にとり待ったなしの、A,B,Cどれでもいいわけではなく、その間に横たわるA’ のような一点に限られる、ということ。

坂本龍一にとり、async とは、sync の差異とズレの狭間にある一点を照射した、彼自身にとり絶対必要な何かなのではなかろうか。

第一印象として、そう思えた。

A Brighter Summer Day 〜エドワード・ヤン追悼〜

April 3, 2017

20170331184439479.jpg

A Brighter Summer Day   〜エドワード・ヤン追悼〜     

舩橋淳  

土砂降りの雨中、黒の雨合羽に身を包んだ少年十数人が自転車をゆっくりと漕ぐ。 血気盛んに大声を上げたり、狼狽して暴れ回る者は見えない。異様な落ち着きを払った少年達は、急くことなく、降りしきる雨の中を統率を保ちつつ、のろりのろりと進む。雨合羽はずぶぬれで、闇の中でぬめりとした黒の質感をフィルムに定着させている。この少年達のスローな平行移動は、まもなく夜中のビリヤード場への襲撃によって、一気にぶち破られるだろう。懐中電灯の照射を合図に、怒濤の闇討ちが始まる。暗闇のビリヤード場に、少年達が殴り合い、うめき苦しむ音声が響く。あの不気味な自転車の移動は、その後に待ち受ける衝撃の伏線だった。突然、画面に差す一筋のサーチライトに、あの敵のチンピラ同様、我々はみな度肝を抜かれた。  

撮影監督ジョン・アルトンが中心となった50年代のフィルム・ノワールにも比肩する、この見事な光と音の演出は、『牯嶺街少年殺人事件』の数ある見せ場のうちのひとつである。見逃してならないのは、サーチライトによる視覚効果と、ドタドタと闇の中で逃げ惑うチンピラに木刀で襲いかかる少年たちが格闘する音声というふたつの感覚刺激に、闇討ちという映画の根源的主題が結晶化されているという点がひとつ。もうひとつは、夜襲に向かう少年たちの緩慢な、それでいて統率の取れた同方向の空間移動が、ただならぬ湿り気と温度を画面にもたらしていたという点である。このふたつの特性が、実はエドワード・ヤンのフィルモグラフィを形づくる重要な何かではないかということを、この論考で考えたいと思う。  

その前に、エドワード・ヤンの受容の地域格差について言っておきたい。わずか7本の長編と1本の短編を残してこの世から去ってしまった楊徳昌。私がニューヨークへ移住する以前1997年頃まで、日本を中心とする東アジアでの彼の評価は最高潮に達していた。文字通りの傑作『牯嶺街〜』への熱狂が『恐怖分子』の一般劇場公開へと結びつき(シネ・ヴィヴァン六本木だったと思う)、『エドワード・ヤンの恋愛時代』、『カップルズ』へと結実していった。『牯嶺街〜』に出演した張震、王啓讃、柯宇▲などが成長し、『カップルズ』で悪ガキグループを再結成するなど、ヤン・ファミリーとも言える共同体が少しずつ台北で形成されていった。私が大学の卒論で『牯嶺街〜』を中心としたエドワード・ヤン試論を書いたのもその頃で、それは私自身の趣味もあったが、世界映画の中心は台北にあり、それをエドワード・ヤンがリードしているという時代的熱狂があった。それでも、西欧特にアメリカでの評価は、『ヤン・ヤン 夏の思い出』を待たねばならなかった。同作がカンヌの監督賞、米National Board Review のBest Picture を受賞し、漸く初めて一般劇場公開された。それを機にニューヨークやシカゴでレトロスペクティブも開催されたが、ごく一部の観客を集めたのみで、アメリカ全土を回ることもなく終わってしまった。つまり、『牯嶺街〜』も『恐怖分子』もアメリカの一般人はおろか、シネフィリーの目にも未だ触れていないのだ。楊徳昌が亡くなった翌々日の7月2日付のニューヨーク・タイムズは「『牯嶺街〜』はエドワード・ヤンにとって重要な出世作となり、彼の評価を確固なものにした」(註1)、ヴィレッジヴォイスは「モダンシネマの最も素晴らしい才能のひとりをアメリカのシネフィリーは殆ど体験できないという結果になってしまった。その最も大きな損害は、A Brighter Summer Day(『牯嶺街〜』)である」(註2)と述べたが、今更なにを言うか?!と怒りを禁じ得ない。日本でも配給権が作品毎に違い、まとまったレトロスペクティヴが難しいと聞くエドワード・ヤンのフィルモグラフィー。東京国際映画祭でレトロスペクティヴが予定されているそうだが、その字幕版プリントをぜひアメリカの劇場へも廻してもらいたい。

〈闇の誘惑〉  

話を『牯嶺街〜』の雨の襲撃シーンへ戻そう。雨合羽と竹傘をかぶった少年グループが闇夜をそろりそろりと敵のアジトであるビリヤード場へと近づいてゆく。その一糸乱れぬ横移動のおそさ、緩慢さがおどろおどろしい。映画において、闇の中を無言で人が集団移動するほど、恐ろしいことはあるまい。タル・ベーラの『ヴェルクマイスター・ ハーモニー』(00)を思い出せば十分だろう。遠くで火の粉があがる革命広場へと、権力打倒に燃える民衆が夜中、ガッガッと行進してゆくクライマックスは誰もが戦慄を覚えたはずだ。フィリップ・ガレルの『恋人たちの失われた革命』(05)において、アパートで麻薬を廻した後、青年達が闇夜の中、いそいそと広場での反政府デモに急ぐ場面もそうだろう。闇の中に際立つ、タッタッという集団の足音が緊張を高め、その次に炸裂する暴力まで鼓動を速めてゆく。ロウ・イェ の『Summer Palace』(06)において、天安門広場に駆けつける学生達がどうにも緊張感が欠けていたのは、この闇の中の平行移動という映画的プロローグへの感性が作家に欠如していたからに違いない。換言すれば、『捜索者』(56)の夜襲シーンを見ているか否かの問題なのかもしれない。危険極まりないコマンチ族の村へ、夜中にじり寄るあのアメリカの夜(Day For Night)のことだ。ジョン・ウェインは囚われの身となったナタリー・ウッドを救出するため、仲間を引き連れ、コマンチ村へ接近する。口笛で合図し、崖の上からコマンチ族のテントを伺うジョン・ウェイン隊は、互いに目配せでコミュニケートし、襲撃するタイミングを計る。ここでは無言が貫かれ、緊張感が夜闇に漲る。そして、突撃ラッパとともにテント村へ突進開始。振動しつつ高速で横移動するキャメラは、テントの合間をぬって突撃するウェイン隊をフォロー。フィックスショットのみで構成された接近の時間の緊張、それが突然ぶち破られ、移動ショットと突撃ラッパによって興奮の渦に巻き込まれる。この無言の緊張、アクションの爆発という呼吸。映画の原始的な悦楽であり、『牯嶺街〜』の土砂降りの夜襲シーンは、それが現代において最も高度に達成された活劇場面として記憶されるべきだろう。  

何度も言うが、無視できないのは少年達の自転車走行の統率された緩慢さである。バケツをひっくり返したような集中豪雨の中、のろのろと進む黒い雨合羽集団。不気味なこの黒の塊は、全員が何をするのか意思統一がはっきり取られたかのごとく、誰も無駄口を叩く者などいない。葬式行列のような寡黙さと緩慢さが、見る主体の感性を揺り動かし、不安という磁場を画面に漲らせる。我々は彼らが何をしているのか、この土砂降りの中何処へ向かっているのか、全く判らない。その情報の空洞化に延々と身を委ねる時間は、まるで『エレファント・マン』(80)の導入部のごとく、その後のシーンへと邪悪な翳を落とす。思えばヤンにおいて自転車には、このような緩慢さが常につきまとった。『光陰的故事』の少女は、メガネ少年とともに大人用自転車に乗る練習をするが、ふたりともハンドルさばきは心許なく、ふらふらと前進するのが精一杯であったし、『牯嶺街〜』では、主人公の小四(シャオスー、ふりがな)にせよ彼の父親にせよ、自転車よりもその傍らを歩く人物と対話する方が重要で、ひたすらハンドルを押しながら歩くだけだった。涼しげにペダルを漕いで滑走する自転車のイメージは、同じ張震が出演していた侯孝賢『百年恋歌』(05)のものかもしれない。ヤンにおいて自転車とは、ひたすら押し黙って緩慢に移動させるしかないスローモーションの移動装置なのだ。そして、この低速で回転する車輪たちは、なんらかの不測の事態を物語に導入することになる。「指望」(『光陰的故事』でヤンが監督した第2話)の少女は自転車の練習をした後、腹痛に襲われ、やがて初潮を迎えることになるし、遺作となった『ヤンヤン 夏の思い出』では、ヤンヤンの姉の少女は、初々しいデート着に身を包み、恋人の少年と自転車のふたり乗りをする(ここでも自転車はふたり分の重量によりゆっくりと走り出すのみで、加速する走行ショットは見られない)。しかし、ホテルにしけ込んだものの、少年はナイーブな精神疾患を爆発させ少女を置き去りにして帰ってしまう。結局、これが契機となりふたりは破局、少年は心を病み殺人を犯すことになる。そして、『牯嶺街〜』における不気味な自転車の集団低速移動は、闇討ちというバイオレンスをもたらす。敵の少年ギャングのひとりが、無防備にも便所から出て来た瞬間、鋭利な刀が彼を二度叩き斬る。殺気を感じた別室の少年達は灯りを吹き消し、暗闇の中、じっと敵の気配を探る。しかし、時既に遅し。小四らのグループは、懐中電灯で闇を射抜き、その瞬間ボス・シャンドンをメッタ刺しにする。  

視線が行方を失う闇の中では、音声がよりクローズアップされる。ビリヤード場で展開する小四たちの闇討ちは、その音声によって我々の感性を深く打った。パパッと一瞬サーチライトに照らされる断片的な映像により、少年達が十数人乱闘していることは見て取れるのだが、その混乱ぶりと凄惨さは音声によってもたらされた。乱闘の後、床を這いつくばう相手のボスを小四がライトで照らす時、我々は奴の呻き声をはっきりと記憶しているはずだ。『エドワード・ヤンの恋愛時代』では、大学時代からの友人同士モーリーとチチがケンカした翌朝、無人のオフィスの暗がりで友情を確かめ合う二人は闇の中でシルエットで示され、その親密な会話だけがフォーカスされた。そう、エドワード・ヤンにおいて闇は、人物同志を武装解除させ、親密に距離を近しくさせる。それは視野が単一色にミニマイズされ、音声だけが主体性を帯びるという感性の突出化が演出されているからだけではない。闇という漆黒の翳に身を包まれた人物達は、それに怯えたように肉体を接近させ、肌を触れ合い、時には唇を重ねる、そんな情緒的化学反応があるのだ。『Taipei Story』の男(侯孝賢)が女(蔡琴)に闇の室内でプロポーズする場面、『海辺の一日』や『牯嶺街〜』のキスシーン、『恐怖分子』の家出少女と写真家が暗室で愛を育むくだりは、全て真っ暗な闇に覆われていた。そして、闇が人物の顔をシルエット気味に隠すことは、美しい映画的細部を構成するだけでなく、物語的なパンクチュエーションとして、情報量が多い画面をシンプルに焦点化する役割を担っている。やたらめったら人物が錯綜するヤンの世界において、(光ではなく)闇がひとつの焦点をもたらしているのだ。

〈フレームという領界の外へ〉  

視界を遮る闇は、隠すという映画的主題を内包している。そして、画面に視線を投げ掛ける我々から、何かを見せずにおくという身振りは、ヤンのフィルモグラフィーを貫く感性である。それはフレームという長方形の境界線の内側に捉えられた事物だけではなく、その外側、オフスペースへも押し広がりゆく。心に迫る瞬間や悲壮感を漂わした人間を、ヤンは平気で画面の外に追いやってしまうのだ。彼ほど体系的にオフスペースの活用を追求した現代の映画作家は存在しないのではなかろうか。50年代のゴダールが、溝口は180度のパンと切り返しを組織的に使う唯一の作家だと指摘したが(註3)、ヤンのオフスペースの活用もまた完璧な域まで体系化され、研澄まされていった。  

具体的に例を挙げてみよう。『恐怖分子』では、オフスペースの見えない存在が主体化された。主人公の医者が、浮気をしている妻と彼女の元同僚を尾行する場面。まず台北の街中を仲良さげに歩く中年カップルの後ろ姿が示される。キャメラはふたりと等距離を保ち、まるで尾行しているかのような不気味な距離感が維持される。十数秒後、キャメラは突如切り返し、自動車で尾行する運転席の医者が示され、前のショットが彼の視点であったことが告げられる。また、彼が職場で次期の課長に選ばれなかったという報を聞き、そのことを上司である医局主任に問い質そうと訪れた場面も面白い。秘書に主任は席を外していると告げられ、渋々諦めるが、病院の一階から主任の部屋を見上げると、そこにはレントゲン写真を持った彼の姿がみえる。この場面も、まず病院の4、5階にいる主任の視点から、とぼとぼと歩く医者の後ろ姿が提示され、彼が突如振り向くと、キャメラは切り返し、はっと驚いて気まずそうにする主任の姿を写す。つまり、はじめのショットが主任の視点であったことが、それに続くショットにより告げられ、オフスペースの人間存在が事後的に明らかとなるのだ。驚きを通して画面外の存在が明らかになる、このようなトリックに幾度も感動して来た我々は、『恐怖分子』の映像話法そのものが、画面に映らない時間での出来事、つまり省略された時間での出来事によって、次のシーンが活性化されてゆくというものであることを自覚していった。いわゆるアクション繋ぎや同軸繋ぎは皆無。ひとつひとつのショットが独立した時間の断片として提示され、その〈間〉にあるオフスペースをパズルのように予測し埋めてゆく、それが『恐怖分子』を見るという作業であった。

中でも家出少女の殺人シーンは傑出していて、私はこれほど緊張と裏切りの詰め込まれた、完璧な殺人シーンは見たことがないーーまずホテルで少女がベッドの傍らに一人立っている。オフスペースよりシャワーの音が響き、キャメラは10センチほど開いたバスルームのドアを示す。彼女の身体を買った男が中でシャワーを浴びているのだろう。その隙に、少女は脱ぎ捨てられた男のズボンのポケットから財布を取り出し、金を抜き取ろうとする。しかし、彼女は中途でアクションを止め、キャメラの方をじっと見つめる。キャメラが切り返すと、そこにシャワーから出て来た男が立っている。シャワーの音は継続しているので、我々の予想も快く裏切られてしまう。少女はバツが悪そうに金を財布に戻し、ベッドの上に投げ捨てる。タバコをくわえた男は半裸のまま、ベルトを拾い上げ、少女を脅すような目つきで睨みつける。緊張が空気中に漲ったそのとき、画面内に少女の姿が突入。男をナイフで突き刺す。不意の攻撃に対応できない男はホテルの部屋の片隅に押し付けられ、苦悶の声を上げる。  

ここではショットごとに、オフスペースの存在がある想定を見る者に呼び起こし、それを裏切る形で次のショットが提示され、スタティックな緊張とサスペンスが高まってゆく。男が少女にお仕置きしてやる!とばかりにベルトをびしっと握りしめた時、少女の身体が画面に突入し、テンションの開放と同時に殺しという関係の断絶がもたらされる。別れた妻を尾行する医者のように、オフスペースの人物達は無言でスクリーンの向こう側に佇み続けるのが常であるヤンの世界において、画面の境界を侵し、人物が画面内に入り込んでくるというのは、掟破りの暴力行為である。そして、『牯嶺街〜』で小四が恋人・小明(シャオミン)を刺してしまう、あの衝撃も、オフスペースからの暴力によるものだった。現場となった、学生が行き交う屋台市場は、クライマックスのずっと以前から作品内に存在し、豊かな細部を形成していた。人目をはばかりポルノ雑誌を立ち読みしているチビのメガネ、自転車でゆっくりとぶらつく一匹狼の青年マーなど、オフスペースから画面内へ、画面内からオフスペースへと出入りし、流動する世界をキャメラは捉えた。「恐怖分子」ではあくまでスタティックだったフレーム外の存在は、『牯嶺街〜』ではめくるめく交錯する人物達を息づかせるオフスペースへと、より流動性を増し、世界の網の目をすべからく享受しているかのようなヤン・マジックを作り上げた。しかし、いきいきと活気づき、流動的に変化し続ける世界に小四は苛立ったのだろうか、その流れを塞き止めんとばかりに、彼はオフスペースに立ち尽くし、小明の行く手を阻む。そして、バストショットの彼女が「私はこの世界と同じよ、変わるはずがない。」と宣言する時、流れる世界=画面に耐えかねた小四は、フレームという境界線を破り、画面内に突入せざるを得ない。小明を刺してしまうという悲劇は、こうして起こったのだ。『恐怖分子』の家出少女と同様、エドワード・ヤン的な人物のアクションとは、とことん追いつめられた切実さと覚悟とともに、画面の領界に踏み止まろうと耐え忍ぶことなのかもしれない。  

思えば、眉間に皺を寄せて思い詰めた表情のままフレームの領界の外に立ち尽くす人間は、ヤンの作品に幾度となく登場する。『エドワード・ヤンの恋愛時代』では、エレベーターの中に立つOLチチがそのフレームの外の恋人ミンになじられる。我々は明の怒鳴り声(オフスペース、エレベーターの室内であり、また声の反響の具合から、近距離で怒声を浴びせていることがわかる)をしかめっ面で受け止めるチチをじっと見つめ、オフスペースに立っているはずのミンを目にすることはない。エレベーターのドアが開き、チチが足早に去ってゆくのを追う彼の後ろ姿を最後に見とめることができるのみである。ここで見られるのも女性から拒絶されたことで、画面に閾入する男性の姿である。前作までと大きく異なるのは、エレベーターという近代的な昇降装置が、ヤンの作品で初めて登場し、オフスペースをさらに新たな次元へと発展させたことであった。病院のエレベーター入り口での再会が、この作品の感動的なラストを飾っていることは誰もが覚えていようが、ここで注目したいのは、エレベーターの扉の開閉という運動により、画面のオフスペースが奥行きという座標軸を獲得したことである。別れても将来フライデー(という名のレストラン)でまたお茶でもしようと言って別れた恋人ふたりは、エレベーターの外と中で各々の時間を過ごす。数秒思案した後、翻意した男が女の後を追おうと扉を開けた瞬間、目の前に女が立っている。ここでは、エレベーターの扉が画面の中に領界線を引き、オフスペースを生み出す機能を果たす。画面の上下左右のどこからでもない、「画面奥のオフスペース」から人物が画面に突入するというのは、やはりエドワード・ヤン的な身振りと呼ぶべきであり、何もバイオレンスだけではない、コメディーのハッピーエンドにも応用されうるのだ。このスライド式扉が付属した乗り物は、『ヤンヤン 夏の思い出』においても、30年ぶりの男女の再会を演出する。ヤンヤンと父親のNJ(呉念眞)がホテルのロビーでエレベーターを待っていると、中からNJが30年前に別れた女性が偶然(!)現れる。女性は愛想良く再会を喜ぶものの、しだいに30年前の恨み言を切り出す。ちょうどその時、次のエレベーターが到着し、NJ の同僚が登場。緊張した空気に水を差してシーンは終わる。ここで明らかになってきたのは、ヤンにおいてエレベーターが、人物の高度を移動させる近代の昇降装置というよりも、画面の中にオフスペース、観客の視線が届かない隠れた空間を創出し、そこから突如人物を画面に配置してしまう、喜劇の演出装置として振る舞っているということである。そんな偶然な出会いがポンポンと続くなんて、あまりにもわざとらしすぎるという人には、センスがないと申し上げるしかない。ルビッチをはじめとして、人はあまりにもできすぎた偶然を愛して来たではないか。ここは、現代喜劇の鮮やかなマジックとして受け止め、ただ驚嘆し、笑い転げていればよいと私は思う。

実は、私が初めてヤンと出会ったのはホテルのエレベーターであった。それが最初で最後の出会いとなったのだが、数年前の釜山映画祭で偶然同じエレベーターに乗り合わせ、間違いようのないこの台湾人映画監督の顔を何度も確認して、私から進み出て話しかけた。無論、あなたの映画のようにエレベーターで偶然出会えるなんて嬉しい、などと気の利いたことを言えるはずもなく、ただ『牯嶺街〜』を絶賛し、感動を伝えただけだった。その時ヤン氏がにこやかに耳を傾けてくれたのが思い出深い。     

ここで考えてきたのは見せずにおくこと、隠すことという主題の感動的な一貫性である。闇夜の襲撃にせよ、エレベーターでの邂逅にせよ、オフスペースからの暴力にせよ、そこに通底しているのは、我々の視界から人物やアクションを見えなくしたり、隠したりすることで、スクリーンを直視する眼差しとはまた別の想像力を刺激する感性であった。画面の中で立ち起こるアクションやセリフの交換を目で追うだけではなく、オフスペースの人物の声や、闇の中から聞こえる肉体と肉体がぶつかり合う音を通し、画面の領界を無効にして、その内側と外部を透明に行き渡らせてしまう複層性を、1秒間に24回照射される写真映像の〈間〉に生み出してしまう。現代映画の申し子のエドワード・ヤンは、そんな離れ業を成し遂げた。

(初出:2007年9月 nobody issue26 )

▲・・・糸へんに、侖

(註)
1. http://www.nytimes.com/2007/07/02/arts/02yang.html?ex=1341028800&en=6c716ece2ed18621&ei=5088&partner=rssnyt&emc=rss
2. http://www.villagevoice.com/film/0727,cheshire,77104,20.html
3. “Mizoguchi is probably the only director in the world who dares to make systematic use of 180 degree shots and reaction shots. But what in another director would be striving for effect, with him is simply a natural movement arising out of importance he accords to the décor and the position the actors occupy within it.” Godard, Jean=Luc. GODARD ON GODARD. Translated by Tom Milne. New York: Da Capo. P71. オリジナル文献の参照が叶わなかったのは筆者の語学力不足によるもの。ご容赦願いたい。

Downhill  ダウンヒル A. Hitchcock

March 23, 2017

E241D4B0-3505-4A63-8D3A-D0D98CADF028.jpg

1927 105 min
Ivor Novello as Roddy Berwick
Isabel Jeans as Julia Fotheringale

Hitchcock 9  東京プレミア2日目。

朝から眠気に勝てなかったのですべてははっきりと覚えていないが、ヒッチコック・サイレント初期にあって、台本をそのまま引きで撮っているという感がいなめない。いくつか、主観ショットをベースにしたサスペンス演出が、ヒッチコックらしいといえばそうだが。

悪女が次から次へと登場し、主人公(美男子)はダマされ続けるというプロットはヒッチコックらしい。まるく太った女性が何人もでてくるというのは、時代性というより、明らかにヒッチコックの好みなんだろう。美男子を老女相手にジゴロさせるマダムとか、あの大仰ななりの人物が次々にでてくるあたりはおもしろい。

「人生の下り坂」とかけて、エスカレーターの下りを見えるという「ナイーブ」(後にヒッチコック曰く)なショットなど、エレベーターの「DOWN」ボタンを押したりと、とにかく「下り」にこだわりまくったビジュアル。

途中フィルムの色が変わる。アンバートーンから、緑っぽいトーンへ。
それは、「悪夢」としてディゾルブを使うより、色のトーンを変えて、いつの間にか悪夢の中にいるという演出だったそう。フィルムをヒッチコックが染色したそうだ。

主人公のRoddy(Ivor Novello)が、悪女にダマされ続ける中で、だんだんと悲壮感が漂ってくるあたりは素晴らしい。

全体的に舞台のようなスタジオでの立ち芝居が続くだけなので、それが厳しかった。初期は演出がまだまだなのかもしれない。次から次へ畳み掛けるというよりは、まったりとしている会話劇が長いと感じてしまう。

ただ引きのショットで見せきるセンスはすばらしい、それは後にさらに磨きがかかってくる感性だ。

<自分の加害について考える日>

March 11, 2017

今日で震災から6年。

今月末には浪江町、飯館村、来月には富岡町の避難指示が解除されます。

福島原発事故は収束したのか。

そんなことありません。
それぞれの町は帰還政策を押し進めるしかないよう、追い込まれているだけ。生まれるのは、帰る人と帰らない人の分断。
高齢者ばかりの町と、離れてゆく若い世代の乖離。

なぜなら線量はまだあるから。
福島では不安を払拭するといいますが、不安=精神的苦痛ではなく、実害です。

線量をなかったことにする、臭いものにフタをする、見なかったことにする、という政府の判断が、町を粉砕している。

そして、大事なのは、その福島からの電気を使い続けてきたのは、僕たち関東の人間であること。僕らも加害の一旦を担ってきた。遠く離れた寒村に臭いものを押し付ける「犠牲のシステム」に加担し、涼しい顔で毎日を過ごしてきたのです。

そんな僕たちにできることはたかが知れている。
しかし、最低限できること・・・この日311は、自分の加害について改めて思いを巡らせたい。

かつて拙作「フタバから遠く離れて」を撮りつつ書いた文章、今も考えは変わらないので、自戒も込めてここで掲載します。

—————————————————
原発事故は遠い昔の出来事だったかのように、風化が進んでいる。

その中で原発避難民を映した映像は、メディアのここかしこに散見されるが、それはみな「被害者」「かわいそうな人たち」というレッテルを張った描写である。

それを見て「ああ、かわいそうだ」と思うもの

「そんな話題、もう見たくもない」と思うもの

こうした認知の在り方そのものが僕はおかしいと思う。   

その認知全体をひっくり返し、見直したいと思う。

なぜか。

福島第一原発の電力はほぼ100%関東圏に送られて来た。
僕たち東京の人間、都市部の人間が使って来た電気である。

そして、60年代〜日本の高度成長の中、「原子力 未来の明るいエネルギー」(双葉町に架かっている標語アーチ)として原子力のポジティブなイメージを支え、原子力にGOサインを出してきたのは、僕たち日本人全員、日本社会そのものだからである。

元は、原爆と同じ核の毒であり、悪魔に魂を売ったゲーテのファウストのように、その大きなしっぺ返しを受けながら、それが自分達に起因している
ことをどうしても認めたくない。

そんなしっぺ返しの強烈な<痛み>に対し、僕たちは距離を置いて直視を避けている。他人のせいにする方が楽だから、国と東電を責める。

遠く離れることで、それを直接には感じなくなることで、
うやむやに過ぎ去ってゆくものがこの世の中に、たくさんあるということ。

原発避難民は「かわいそう」なだけじゃない。

僕たちもその加害の一端を担っているのだ。

正義の欠如に僕たちも加担しているという不都合な真実。

今の国の態度は、金と権力と歪んだ理屈でムリヤリで黙らせようという前近代的なやり方。(それは、いまの首相にせよ、県知事にせよ、また世界のあらゆる国で見られる市民の弾圧である)

住民説明会では、環境省が中間貯蔵施設の補償を、東電が賠償の窓口とする、という縦割りが徹底され、すべて事務的な補償<金目>の議論に落とし込まれている。

そもそも誰がこのような犠牲を押し付けるのだろう?という問いは、議論されない。

そうすることで、国は責任追及は免れる、
のではなく、「僕たち」が責任を免れている。

巨大な責任回避装置を私たち自体がサポートしている。

他人の痛みを思いやるだけじゃ足りない
自分の加害について思いを馳せる 

それがぬくぬくと電気を使いつづける、悪魔に魂を売り続ける、私たちが感じるべき、ささやかな倫理であると思う。

「息の跡」小森はるか

February 19, 2017

映画の画面、ワンショットごとに血を通わせること。
それが巨大震災に映画作家が向き合う唯一の方法であることを、小森はるかは誰に教わることもなく知っていた。荒れ果て、人気(ひとけ)もなくなった荒野が、一人のたね屋のつぶやきで、まるで違った風景に見えてくる。

彼女は、ひとりたね屋の定点観測を続ける。たね屋は、悲しみが深まることを避けるため、母国語でなく英語、中国語、スペイン語でつぶやきを続けてゆく。すると信じ難いことに、言語によらずともはみ出してくる、情感だけがこちらに浄化され伝染してくるのだ。たね屋の魅力を見いだし、キャメラとともに根気強く付き合い続けた彼女の胆力にひたすら感動した。

映画と震災の美しく、正しい接点に触れた気分である。

146E40D7-27EE-493E-A3EC-2C409257D64A.jpg

SILENCE  Martin Scorsese

January 22, 2017

silence-martin-scorsese-andrew-garfield-adam-driver-liam-neeson-1-22-at-10.34.40-PM.jpg

「沈黙ーサイレンスー」 2017  原作:遠藤周作

内心の自由とはなにか、強く問いかける作品。
信仰とは本質的に、内的なものであり、他人に伝播し得ないもの。
だからこそ、それを布教しようとしたときに様々な矛盾と問題、対立が起きる。
ポルトガルによる布教、その権力と結びついた日本への布教作戦をとくと見せられるのだろう、と高を括っていると、実は信仰=FAITH の本質とは何か、それは自分の為のものか、もしくは他者のためのものか、社会のためのものか。ヨーロッパと全く文化・風土も異なり、土着的な八百万の自然神信仰が根付く日本という国に、ヨーロッパ本位の思想を押し付けても意味があるのか?遠藤周作の原作を映像でさらに補強し、その矛盾と不条理をえぐり出す強烈な作品となっていた。

Casino以降よく見られる、「その描写はいるのか?」と思えるディテールは相変わらずあって、それが長尺を生んでいるのだが、塚本晋也やLiam Neeson、イッセー尾形、浅野忠信の圧倒的な熱演でテンションが持続しており、「見れてしまう」のが作品の完成度を語る。特にLiam Neeson 演じる棄教した神父の暗いプレゼンス、悪魔的な語り口が素晴らしく、もちろん日本に帰化したという雰囲気はあまり感じられないという不満はあるものの、<沈黙>の裏=娑婆にいきる人の苦悩を体現し、イッセー尾形(彼もすごかった!)映画の後半を支えきっている点は素晴らしいといえまいか。

世界規模で他者への寛容、内心の自由が脅かされている今の時代に見る意義のある作品である。

A HAPPY NEW YEAR 2017

January 2, 2017

明けましておめでとうございます。

2016年は多くの方にお世話になりました。
また新しい年が始まりましたが、ぜひどこかでご一緒させていただいたり、お話しさせていただく機会があることを待ち望んでおります。どうぞよろしくお願いします。

昨年は、おおまかな言い方で恐縮なのですが、世界全体が「ぎすぎすした方向」へよりアクセルを踏み込んだような気がしています。主にシリアからヨーロッパへ押し寄せる難民問題、それによる欧州全土の動揺・右傾化(特にフランス!)、Brexit、そしてトランプ旋風など、他者を受け入れるよりは排斥する方が良いとする空気が世界を席巻しているように思えます。トルコから欧州への接続地帯やコロンビアを中心とした南米の国境地帯では、武装化が至極当然に進められており、南シナ海では中国と近隣諸国との緊張が極度に高まっています。そんな中、日米の首脳が広島だの真珠湾だのに訪問し合い、実質何も意味しない「和解」の言葉を語り合うのは、時代錯誤ではないかと思えてしまう最中、日本の天皇が生前に退位を決意したというのは、何か一つの時代の終焉と、その先の時代への深刻な警告のように感じられます。

で、僕たちが日々どうやって過ごしてゆくか、という話しになりますが、自国はもっともっと武装化すればよい!と物騒な言葉を息巻く人々がごくふつうにいる世の中になってしまいました。そこで、ローカールなレベルでの衝突をふっかけるのもいいのかもしれませんが、上のような世界的な「排斥傾向」の潮流で、一個人がどうしてゆくべきか、を考え続けるのが今年の(も)課題ではないか、と漠然と思っております。

僕自身は、映画という表現でそれを語ってゆくしかないわけなのですが、メタのレベルでも、ローカルで個人的なレベルでも、共感を広めてゆくのが自分の役割であるのかな、とも感じています。

みなさん、本年もどうぞよろしくお願い致します!

舩橋淳
映画作家
BIG RIVER FILMS

<< 今年の年賀状^^ >>

年賀状2017-3 copy.jpg

「雨にゆれる女」   

September 29, 2016

B9YAfMwCEAATTaw.jpg

半野喜弘 監督  2016

陰鬱な湿り気に満ち満ちた廃屋の鉄パイプ。
人がきっと血を流すに違いないと思える曇り空や、荒々しい冬の海の表情。
もはやこの世で誰の助けも借りずに生きるしかないと覚悟している男が喰うメシの音。
“映画の光”と“映画の音”を正しく捉え、“映画の人物”を正しく画面に収める感性は卓越している。
この映画的血脈の“正しさ”を、惜しげもなく画面の隅々に漲らせる半野善弘の処女作は、その予算規模に反して、贅沢な一本に仕上がってしまった。素晴らしい。

「ダゲレオタイプの女」(黒沢清 2016)

August 16, 2016

maxresdefault.jpg
黒沢清監督初のフランス語作品「ダゲレオタイプの女」拝見。

初期写真技術の現像液の水銀と毒薬に身体を侵された人間たちが、半死半生の世界を漂い続ける。

フィルムの銀盤に身を委ねることは、死への彷徨なのか、永遠の生なのか。

人物たちが生きているのか、死んでいるのか、という基本的な問いだけで、胃が引きちぎれそうなサスペンスを演出してみせる黒沢さんの手腕に脱帽。

自分の理解できない言語のドラマを演出することによる、画面の乱れが皆無であることは、本当に信じ難い。

傑作!

「みな殺しの霊歌」 

August 15, 2016

tumblr_ma6hbgFU9s1r1d5rwo1_500.jpg  
監督・加藤泰 1968  90分
出演:佐藤允 倍賞千恵子

激しすぎる。
こんな激しい映画はみたことない。

一瞬一瞬が熱湯のような映画。
加藤泰の血しぶきが全てのフレームに詰め込まれた激情の映画である。

主人公たちは常に、一点を凝視してぷるぷる震えているか、
泣き叫んでいるか、のどちらかで、
怒り狂うものと、泣き叫ぶものと、茫然自失のものたちだけで画面が占められている。

なぜだろう、いつも水が「ガッーーーーーー!」と出しっ放し全開で、汗が吹き出た暑苦しい男たちが無意味にすぐそこの建設現場で働いており、それが殺人現場に「なぜか!」隣接している。それら無意味さが正当化されるのこそが、映画であると気づかされる。

主人公、時効寸前の逃亡殺人犯(佐藤允)が心を通わす女・はるちゃん(倍賞千恵子)は場末の中華屋で働いているのだが、閉店後に入ってきた殺し屋は、「もう火を消しちゃった。店を閉じるんだよ。簡単なもんだったら・・・」と言ってるのに、わざわざ「かつ丼」を注文し、なぜかその要望は受け入れられる。「なんで?」の連続なのに、その画面があまりにも暑苦しい密度に満ちているため、見る者は納得する。

 そう、これは細部の突出の映画。さんざん見せられる有閑マダムたちのマンションも、結局全体像はわからず、闇の部屋という印象だけが残る。

 中華屋のはるちゃんと殺し屋がしんみり話す原っぱなんか、いったいどこなのか? 荒川の土手が好きだといっていたから、荒川の土手なのだろうか。
しかし、このシーン、最初は「なぜか!」佐藤の指に刺さったとげをはるちゃんが針で抜いてやり、「ぎゅっ」と出血した指をすってやるカットから始まり(意味不明だが、激しい顔のアップの応酬!!)、ポンと引いたロングショットでかろうじて原っぱ(荒野か?と思えてしまう)だとわかり、ぼんやりと薄くなったはるちゃんの横顔がなんとも美しく、記憶から消し難い。そして、また違った角度からの引きのショットへと繋がり、遠くから強烈な夕陽が二人に襲いかかる。おもむろに立ち上がった二人の間には「なぜか!」高低差があり、高いところから飛び降りるようにして、はるちゃんにダイレクトに抱きつく殺し屋がいる。その落下運動の激しさ!!
こんな細部、忘れろといっても忘れられないような演出が盛りたくさんなのだ!それらは「なぜか!」という無意味さを軽々と凌駕してゆく。

物語は、うぶなクリーニング屋の青年を輪姦した新宿クラブのマダムたち5人を、「おまえたちは寄ってたかって、一番きれいなものをめちゃくちゃに汚しやがった!そんなことがまかり通るのか!?そんなことじゃ、神も仏もねぇじゃねえか?!」と逃亡殺人犯(佐藤)が怒りの鉄拳で、一人ずつマダムを殺してゆくというもの。だが、よくよく考えると、そんなんで5人も虐殺するのか、と思ってしまう(その意見は刑事の口からも漏れており、映画中もちゃんとフォローはされている。脚本構成の秀逸さ)のだが、極端に思い詰めてしまう正義感の強い人間がえてして社会ののけ者にされてしまう、という加藤泰が込めたアイロニーが熱く画面にみなぎっていた。

映画は、「どんな理由でも殺人は罪なのか?」ときわどい問いを熱く投げかける。

殺人に走る者は、わかりやすい悪人などごく少数で、実は繊細で極端に思い詰めてしまう正義の人間が、不器用に突っ走ってしまった悲劇ばかりなのではないか。

社会で弱者、悪人とレッテルを張られる人間を擁護する熱い思いが、加藤泰の根底に流れるもの。

その熱量に僕らは圧倒され、熱狂し、共感する。