堀江氏発言「生活保護世帯への進学支援「無駄遣い」」は間違っている

December 12, 2017

今朝の朝日新聞/日刊スポーツ: 堀江貴文氏、生活保護世帯への進学支援「無駄遣い」
http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/Cfettp01712125414.html

この堀江氏の発言、2つの意味で間違っている。


「優秀な学生には返さなくて良い本当の奨学金がすでに支払われる枠組みがある」というが、給付型の奨学金は、ごく一部。しかも授業料、生活費を全部カバーしてくれるわけではない。日本の奨学金は、殆どが貸与型。しかもこれも全部カバーしてくれず半額以下が殆ど。
だから、低所得で優秀であっても大学など高等教育が保証されているとは全く言えないのだ。

大事な認識は、日本の奨学金が先進国の中でも圧倒的に最低レベルだということ。

欧州に比べると、天と地の違いである。
ドイツなどは外国からの移民も含め、授業料はなし。
アメリカは学費はバカ高いが、学生全体の約70%が奨学金を受けており(日本は10%以下!)、州政府の公的な給付型と、スタンドフォード奨学金の無利子貸与型と、それでも足りない学生のためのパーキンス奨学金(利子あり貸与型)の三段階を併用でき、どんなに低所得でも学費&生活費をカバーしている。


「税金で高等教育をあまり役に立たない人に施すのは間違ってる」
→これは、教育の機会均等の理念を真っ向から否定する、エリート主義の選民思想で、低所得層の個人だけでなく、長い目でみると社会と国そのものを荒廃させる。
バカは教育しなくていい。早いうちから篩(ふるい)にかけてしかるべき所で働かせるのが社会のため、というのは、いかにも前近代的な二元論。

教育の効果は個人に帰属するのではなく、国家・社会に還元される。

そんな理念を掲げて、社会を形作ってゆくべきなのだ。
(原発ナシの生き方を選ぶ、という理念を掲げて、脱原発したドイツは、まさしく日本の逆で、理念をまず大切にする)

これは日本の教育システム=政治の根本的問題であり、堀江氏の非では全くないが、そんな理念意識も希薄で、機会均等が全く整わない日本の狭い社会のなかで、弱いものを蹴落とすセコい選民思想は、さらに社会をやせ細らせてゆくのだ。

だから、「バカとエリート」の選別・最適化という一見正しいかに聞こえる考えは、間違っている。

まずは、高等教育にも機会均等を成し遂げるべきであり、アメリカの高額授業料&奨学金フル補充型に向かいつつある現状よりは、ドイツ型の無償型に行くべきだと、僕は思っている。

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24 FRAMES Abbas Kiarostmai

November 27, 2017

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FILMeX最終日にいそいそとキアロスタミの遺作を拝見。
真の傑作。今年みた中でナンバーワンかもしれない。

映画と詩の関係が、「マルメロの陽光」を思い出させた。
映画とは、画面の「枠=フレーム」という四角い物理的制約のなかで起きる限られた表象現象である、ということにくわえ、
時間にも一つの塊の枠組みを与えるという意味で、時間軸方向のFRAMEを与えるのも、映画であるということをまざまざと感じさせる作品だった。

本作は、24の1シーン1ショットのFRAME を提示する。
殆ど静止画のような止まった時間を見つめながら、その合間合間に見てゆく時間の流れを見る者が想像力によって埋めていく作業。そこに映画が生まれてゆく。個人的には、FRAME6,21,24がもっとも美しく、この映画の本質を突くショットであるように思えた。どれも室内から外への視線、鳥、木、音楽、が共通している。
一回見た限りだが、記憶の限り描写してみる。

FRAME 1 一幅の絵画。猟師が猟犬を連れ、雪原の下に望む町に向かっている。静止画かと思っていると、家から煙が立ち上り、犬が歩き出し、鳥が飛び出し、奥の道路で牛が歩き出す。徐々に動画になってゆく。

FRAME 2 走行する車窓。自動でウィーンとあく。
そこでは雪の中、馬二頭が争っている。

FRAME3 海岸に横たわる全く動かない白黒の物体。
よく見ると呼吸して揺れている牛だった。
そこへ牛の群れが通りかかる。

FRAME4 雪原をトナカイが横切ってゆく。
FRAME5 雪原、子鹿が茂みの真ん中にじっとしている。
動き出したとき、バンと打たれた?もしくは罠にかかって、 倒れる。
FRAME6 白黒。室内の窓。からすが窓際に止まっており、外には美しい木の影。女性ボーカルの音楽が室内に鳴り響く。
FRAME7 海際の遊歩道の手すり。からすが二匹〜3匹止まっている。
FRAME8  雪原(海の際?)、大量の小鳥が群れをなして狂ったように飛んでゆく。
FRAME9 岩の丸い穴の向こうにライオンが二頭。どしゃぶりの雨。
FRAME10 豪雪の中、羊が丸くなり集まっている。犬が一匹。
FRAME11 豪雪の中、オオカミ同士がじゃれ合っている。
FRAME12  温かい色彩。障子があり向こうに芝生。障子の影に鳩。
何匹もの漁類が横切ってゆく。
FRAME13 海。カモメが何匹も居て、そのうちばーん!と一匹が撃ち落とされる。 そこに仲間のカモメがどんどん寄ってくる。
FRAME14 町の近く。コンクリートの四角い枠組みの奥に道路が見える。 そこをバイクや自動車が通り過ぎ、その度に小鳥が測道へ逃げる。
FRAME15 パリのエッフェル塔。シリア人難民?5人の後ろ姿。
段々日が暮れ、明かりが付く。ギターを持って歌う女性がくる。
FRAME16 海岸線の廃墟。奥にボートが止めてある。ガチョウが出入りする。
FRAME17 雪原。木の間に雀がいる。ネコがやってきて捕まえ、くわえて持ってゆく。
FRAME18 雪原。ムクドリが足をいろいろ動かし、隣の仲間と共に遊ぶ。
FRAME19 雪原の牛。中央に一匹が鎮座し、その奥や手前を群れが横切って行く。 白黒の中、吹雪、霧が美しいトーン。
FRAME20 窓の外を通した、外は明るく静かな雪原。
FRAME21 部屋の中。室内。枠外で人が入ってきて、カーテンを自動で空け、音楽がなる。音響空間がいい。外に木が揺れ、からすが窓際に止まる。美しい。
FRAME22 雪原にいる鳥? とりとめもなく動いている。
FRAME23 木こりが通んだ木材。その奥に二本、木が見える。順番に切り倒される。木材の上にインコのような発色の良い鳥。
FRAME24 室内。窓際の机にコンピューターがあり、映像編集がされている。モノクロームのハリウッド映画(題名不明、知りたい!)のラブシーン。男女が抱き合い、女が腕を男の首に廻す瞬間が、スローモーションで再生されている。おそらくレンダリングの最中なのだろう。1フレーム1フレームを、刻み込むように示すモニター。窓の外では雪が降り、木々が揺れ、夜は更けてゆく。

NIGHTFALL / Jacques Tourneur

November 24, 2017

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NIGHTFALL Jacques Tourneur 1956 80分 
Columbia Pictures
Aldo Ray (Inglorious Bastardsのブラピ!!), Anne Bancroft,

東京フィルメックスのジャック・ターナー特集ではじめて拝見。

強盗たちが奪った大金のバッグを取り違えたために、主人公の商業デザイナーの男が悪者たちに追われる羽目になるというステレオタイプの「犯罪巻き込まれもの」であるにも拘らず、ターナーの手に掛かるとここまで美しく、詩的に、魅惑的になるものかと嘆息してしまう。
誰もがどこか影を抱えたキャラクターで、声を荒げることなく、しゃがれたハスキーボイスでぼそぼそ呟く。分かりやすく明るい性質の人間はだいたい端役に追いやられ、主人公は悪者だろうが、善人だろうが、屈折した性格ばかりでしょせん陽の当たる場所には行くことはないだろうという諦念を抱えた人物だ。陰影を効かせた空間設計(撮影はBurnett Guffey!)と相まり、エニグマティックな謎が深まるばかりのドラマが展開する。
同特集「I walked with a Zombie 私はゾンビと歩いた!」(1943)の上映後で、黒沢清監督が、フィルム・ノワールの定義とは「あれこれ具体的なディテールや挿話が展開するのだが、それが全て合わさると壮大な謎、不可解な闇となり、もはや世界は解読不可能、もうそのままにしておいた方がよい、と恐れおののいてしまう」映画(註:ざっくりした記憶)と話しておられたが、「The Big Sleep三つ数えろ」(H・ホークス)まではいかないにしろ、様々な細部がどこか犯罪のニオイのする闇に繋がっているように感じられ、主人公(Aldo Ray)はもはや逃げられまいという絶望を漂わせているあたりが本当に痺れる。  
 画面に漂う荒涼感への感性はただものではなく、例えば前半、追っ手の悪者二人にAldo Rayが鉄塔のある湾岸地帯(川岸かも?)にしょっぴかれ、殴られ脅される場面に漲っていた寂寥さはどうだろう。人知れぬ水際というロケーションの美しさは、どこか黒沢清監督の「叫び」を思い出してしまった。

Chris Fujiwara がフィルメックスのパンフに寄せた短めの論考で、ターナー映画の魅力は、ベッドタイムに子どもへ物語を読み聞かせ、心惹かれる体験に似ていると指摘していた。夢か現実か分からぬ、謎に満ちた冒険、魔術、異様なものが頻出し、緊張と期待で観客を虜にするという。(彼のターナー論モノグラフィの副題は、”The Cinema of Nightfall” である!)
 夢か現(うつつ)か、生か死か(ゾンビ)、光か闇か。
どちらがどちらだという結論を決して提示することなく、荒涼とした寂しい場所で人々が途方に暮れつつ、謎を抱えたまま生きてゆく。ジャック・ターナーは、映画にしかありえない詩的な往復運動を見せながら、我々を魅了し続ける。

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ライオンは今夜死ぬ  

October 31, 2017

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LE LION EST MORT CE SOIR.
2017年 諏訪敦彦監督

映画を撮ることは、偶然を必然とする作業である。
なぜその映画を撮るのかという理由は、作品ごとに様々であり、プロデューサーがたまたま運用できる資金を持ち合わせていたり、売れ線の原作小説の映画化ライツを獲得できたりなど現実的な要因もあれば、作家がある俳優に出会ったり、ある題材に遭遇することでそこから、物語が紡ぎだされたりする純作家的プロセスもあるだろうし、またさらに、映画作家個人の人間関係や映画外の活動、つまり作家の人生そのものが起因し、映画を「撮らざるをえない」状況に陥ることさえもある。
いずれにせよ、どんな状況から映画が立ち起こったかは関係なく、作家たちはそれがさも「出来るべくして出来た」完成品としての映画に仕立てる作業を一手に請け負う。見る人間は、その作家がどんな邂逅を巡りめぐってきたのかは知る由もなく、スクリーンに照射された映画を、一つの物語、一つの世界として受け入れるからである。
「ライオンは今夜死ぬ」は、作家諏訪敦彦を取り巻く様々な偶然がキャメラによって繋ぎ止められ、見たことのないような出逢い、化学反応を繰り返してゆく様が、ドキュメンタリーのごとく記録され、それがあろうことか作品として成立してしまうという、撮影のプロセス自身が映画の背骨になってしまった奇跡のような作品といえる。
 大学や「こども映画教室」で教育者として映画を背負ってきたこと、ジャン=ピエール・レオーに出逢い、彼の存在自体が生きる映画史に感じ入ってしまったこと、リュミエール兄弟が撮影したラ・シオタ駅をはじめとする南仏の光の映画史的蓄積に刺激を受けたことなど、様々な偶然をあたかも至極当然であったような身振りで一つ一つ繋いでゆく。諏訪のその手つきが映画を生きることそのものになっている。換言すれば、人生の細部の豊かさがこぼれ落ち、すり抜けてしまう前に受け止める網の目こそ、映画であるとも言えよう。
 特にジャン=ピエール・レオーの言葉や歌(それは諏訪でなく、俳優自身のものであるそうだ)に啓発され、南仏で撮影を続けている映画内映画のクルーや、これもまた映画内映画教室の子どもたちが反応してゆくさまが素晴らしい。かつては映画の俳優だったのかと子どもに尋ねられ、かつては良い映画に出逢った、それに今も俳優だ、と答えるジャン=ピエール・レオーの、眉をうじうじと動かす目つき、口を尖らせるような口ぶりを目にする我々は、そこにヌーヴェルバーグの記憶を読み取りつつ、映画史のドキュメンタリーが眼前でまざまざと進行していることに驚く。ジャン=ピエール・レオーを描く上で、カウリスマキも、ツァイミンリャンも挑戦し得なかったアプローチを選んだ、諏訪敦彦の野心は凄まじい。
 (おぼろげな記憶で書くが)子どもたちの撮った映画内映画を見ながら、「映画をしかめっ面で撮る人間も多いが、これには映画をつくる喜びがある」という時のレオーの顔、子どもたちの顔は、自然という語彙がもはや不自然に思えてくるような驚くべき自然さを湛えており、それこそ「偶然」が、映画としての「必然」になった時間であった。奇跡というしかない時間を生み出した諏訪の演出は、「クローズアップ」を撮ってしまったキアロスタミのように、人生と映画を出来るかぎり接近させる臨界点を見出だしている。

「インディペンデント映画の脚本ってなんだ?」動画UP

October 8, 2017

9/6に開催された【鍋講座 vol.35 インディペンデント映画の脚本ってなんだ?】の記録動画が公開されました。
 

ゲストの脚本家お三方・髙橋泉さん、向井康介さん、髙橋洋さん(敬称略)のお話は、現場の濃密さと熱量がじかに伝わってくるものでした。

この企画の言い出しっぺである僕は司会をやりましたが、本当にやってよかった。皆さん、日々2時間なり8話なりの映画やテレビをどしどし書いている方なので当然と言えば当然なのですが、話が本当におもしろい。

高橋泉さんの「キャラとキャラをぶつけて、書いている中でシーンが際立ち、キャラがはっきりしてくる」手法、
向井さんの「1シーンの中での序破急」
高橋洋さんの「何を見せ、何を見せないのか。ホラーとはどこかで四谷怪談であるべき。」

など、キレある慧眼でした。また続編も考えたいと思います。

会場は超満員。キャパオーバーで入れなかった方も数十名いたそうで、本当に申し訳ありませんでした。
次回はもうちょっと大きいところでやるとか、諸々反省したいです。

後日レポートが映画鍋のWEBサイトで公開されますので、お楽しみに!

舩橋淳

“walker”

October 8, 2017

a short film by Atsushi Funahashi
MUSIC: “walker” by Ryuichi Sakamoto

Ryuichi Sakamoto | async
International short film competition

http://www.sitesakamoto.com/

できた!
音楽に映画をつける、という初めての体験。

妖怪たちのオペラ

September 22, 2017

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百鬼オペラ 「羅生門」@シアターコクーン

渋谷で観劇。
芥川龍之介の原作をイスラエル人芸術監督が演出。
絵本のような、妖怪と概念が一緒になって時空をふわっと横断してしまうような、奇妙な作風が面白い。
拙作の主演でもある柄本佑は、全身タイツの妖怪たちと戯れていたかと思えば、羅生門の多襄丸にもなるという大活躍。幅がある役者だなぁと。
先日の香港のMVも圧巻だったけど、やはり満島ひかりのダンスは素晴らしかった。劇空間からミュージカルにスライドする瞬間がゾクゾクする。映画のミュージカル性を身体で表現できる人だ。
照明も舞台美術も魅惑的で、青葉市子さんら音楽隊の雰囲気ともハマっていた。凄まじい完成度。 (9.21.2017)

THINKER: Sakamoto

September 15, 2017

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Ryuichi Sakamoto: CODA  Stephen Nomura Schible 2017

ついに初号試写で拝見。
async の制作中の時間に絞り込んだドキュメントは、作曲家であり、かつ思想家(thinker)である坂本龍一の精神世界にじっくり没入しようという一点に絞られており、その潔さがとても鋭く、深みある場所に到達している。

YMOやベルトルッチ、イニャリトゥなど映画界のあの人やこの人と思い浮かぶ大物のインタビューなどは一切出てこない。おそらく撮影はしたのだろうが、結局は他の誰かに称賛されるような言葉は必要ないと判断したのだろう。教授本人の人間的魅力と新作に向き合う“音探し”の時間にとことん付き合い、沈み込んでゆくことこそ、その凄みを贅沢に実感できるものではないかという監督Stephen Nomura Schible の割り切りが素晴らしい。

バッハ、タルコフスキーという宇宙の摂理にまで、その作品世界を広げていった作家の英気を吸い込み、自らは世界のchasm (亀裂)やasync (ずれ)に音を滑り込ませてゆこうという坂本龍一の手つきに、わずかながらでも触れられた気がした。

不明瞭な空虚さ——「三度目の殺人」  是枝裕和監督

September 11, 2017

「不明瞭な空虚さ」——「三度目の殺人」  是枝裕和監督

この週末に拝見。
殺人そのものを描かずに、その後の法廷闘争、弁護士と依頼人である殺人犯、その関係者たちの信頼関係、つまりは同じチームとして共闘すべき人間たちが、本当の意味で信頼しあえているのか否かに、テーマの焦点を絞った作品。
福山雅治演じる弁護士が、そのクライアントである殺人犯と、寄り添えているのか、それとも信頼関係などは青臭い、それ自体あり得ないもので、減刑など「どこに落とし込むのか」ということで目的を絞り込み、そのために口裏を合わせて協力するだけの関係なのか、という問いが全編を貫いている。
 十代の広瀬すずに法廷とは「だれも真実を語らない場所」という台詞を語らせていたが、そんな大人たちのニヒルな場所としての法廷闘争を描き出す——という目的は半ば達成しているかに見えるが、どこか作品として消化不良で煮え切らない。
 (以下ネタバレ)なぜか。広瀬すずをレイプし続けた父親から救う為に、役所広司演じる容疑者が殺したのではないかという「線」と、法廷で広瀬すずが父による性的虐待を吐露するとなった途端、容疑を認めていた役所広司が殺人を全面否認、金を脅し取っただけで殺したのは他の誰か(あり得るのは娘の広瀬すず?)という「線」が浮上し、交錯する。その2つの推測をめぐって、裁判官や弁護士がああだこうだとすったもんだするのだが、もう真実はどうでもよろしい、さっさと終えてしまおうという大人の論理で終幕が半ば強引に引かれる。その背景に、「訴訟経済(法廷経済)」という裁判官と弁護士たちのあうんの呼吸による判決の落とし込みがあるのだが、それはそれで「腐りきった日本の司法社会の現実」(括弧つき)を描写しているのかもしれぬが、何が言いたいかというとそれによって翻弄された当事者たちと、彼らの背負う業が見る者に分かるように宙吊りにされていないということだ。増村なら分かりやすくやっただろう。黒澤明なら「天国と地獄」のようにベタにやっただろう。そこまで脂ぎらなくてもよいのだが、広瀬、役所、福山、(そして斉藤由貴の母も?)という当事者たちがどこに行き着いたのか、何を背負って、どんな苦しみをごくりと飲み込んで耐えて生きてゆこうと決意したのか、そこを明確にしていないので、作品としては、弱いと言わざるを得ない。

福山が、殺人容疑者の役所にラストに言う、「あんたはただの『うつわ』なのか」という台詞。それが文字通り空っぽに聴こえてしまうところに、この作品の物足りなさがある。

ダンケルク

September 11, 2017

Dunkirk  by Christopher Nolan

The Dark Knight は傑作だったが、それ以外はまったく良いと思ったことのないChristopher Nolan. Memento など初期からずっと見続けているし、Hans Zimmer による音楽など見所を満載させる山師的才能は傑出しているので、ついつい劇場に見に行ってしまう。例によって”Dunkirk” も封切りで見た。

Inception でも感じたことなのだが、史上最大の作戦を幾つもの視点からこれ以上ないほど大げさに描き、その果てにある意味「だからなに?」は問わずにおくというのが彼のスタイルなのだろう。今回も第二次大戦初期の、連合軍が圧倒的にナチスドイツに押されていた時期の大撤退作戦を、陸、海、空の3つの軸で描いてゆく。複数の人間(今回は兵士)が絶体絶命のピンチに巻き込まれてゆく描写は相変わらずうまいのであるが、この人間を見ていたい、この人間の吐く言葉と肉声を聞いていたい、このじいさん、もしくはこの若者をずっと見続けたい、というような深みのあるキャラが登場することは皆無。20世紀ではなく、むしろ21世紀的な散漫でド派手な戦争ショーに付き合わされる。そして、戦争に対する作家的視点はなく、最後は撤退はしたものの英国は決して負けない、という戦意高揚の音楽と共に終幕する。イーストウッドなら絶対そんなマーチ音楽が、空虚に空々しく響くはずのところをマジで盛り上げようとしている点はげんなりしてしまった。彼は、特殊なサーカスとしての映画に興味があり、それはジェームズ・キャメロンのそれに近いものだろう。やたら心臓の鼓動や、金属が軋み合う重低音はやり過ぎ感があったが、ただ戦闘機が画面を横断する「音」は本当に凄まじかった、とそれだけは賛美しておく。