吉田広明氏の大著「B級ノワール論 ハリウッド転換期の巨匠たち」を読んでいる。Anthony Mann は改めて偉大なのだ、と実感しつつ、1940年代の初期の作品について読み進めてみると、Republic Pictures, PRC(ウルマーが活躍した)、Eagle-Lion Films とB級映画独立製作会社ばかりを転々としていたことを知る。その中からT-Men、Desperate (死に物狂い、撮影はなんと12日!予算は1000ドル!)のような傑作が生まれたのだと。心底、敬服いたしました。Republic Pictures で撮影監督John Alton と出会い彼の元で「映画作りのコツ」を学んだり(Alton 談)、スタージェスの下について「サリヴァンの旅」(1941)撮影に携わったりと、低予算映画の闘争の渦中にあってこそ、後世決定的と思われる出会いがある。Mann については、いつかまとめたいと思っている。
Anthony Mann & B Movie productions.
July 8, 2009 by Atsushi FunahashiTabacco Road
June 29, 2009 by Atsushi FunahashiJohn Ford 1941 84min Fox
Written by
Erskine Caldwell (novel)
Jack Kirkland (play)
Nunnally Johnson (screenplay)
Charley Grapewin … Jeeter Lester
Marjorie Rambeau … Sister Bessie Rice
Gene Tierney … Ellie May Lester
William Tracy … Dude Lester
Elizabeth Patterson … Ada Lester
Dana Andrews … Capt. Tim Harmon
つい傑作という言葉を安易に口にしてしまう。
言ってみればスラップスティックな展開の過剰さに、口元を緩めながら、Charley Grapewinとその息子 (William Tracy、登場すれば必ずブチ切れて、物を投げつける)と、その妻となる尼僧(Marjorie Rambeau、登場すれば必ず声を張り上げ歌う!)らの奇行・怪行につきあっていると、いつの間にかさめざめと泣かされている自分にはたと気づいた。
どんでんを返すときはどんなに短いショットであろうと圧倒的に美しい斜光に人物をおいたり(走らせたり)、ボロ屋の軒先Charley Grapewinが腰を下ろすときは、正しく美しいアクション繋ぎで人物ににじり寄ったりと、キャメラの位置にひたすら感動。銀行に家を取り上げられ、寡黙な妻と一緒にあてもなく荒野を歩いてゆく時のモンタージュは、映像がどんな豊かな語彙をもってしても表象し得ないことを立証している。灰色の空と農地の塀だけで作られたフレームを、二人の老人の後ろ姿が横切ってゆく。力ない二人の歩みが一つの画面からもう一つの画面へと移動してゆくとき、本当に久しぶりに、この画面の持続がずっと続いてほしい!と願った。
また尼僧が歌声を響かせて登場すると、市庁舎では市長や職員が同調して合唱し、あんなに反対された婚姻の儀があっさり認められ、カーディーラーの元では業者がみな合唱を始め、新婚夫婦は支払いなしで新車を手に入れてしまうというあり得ないギャグの反復を前にすると、苦笑が転じて爆笑になるということもあるんだなぁと。
そして、今日6月29日はEdward Yang の命日。”A Brighter Summer Day” を決して忘れてはならない。
注意を散漫に! To Distract Yourself.
June 29, 2009 by Atsushi Funahashi「Deep in the Valley 谷中暮色」の宣伝会議。ポスター、チラシなど素材を作り直すことに。ベルリンなど海外映画祭用に作った、五重塔が燃え上がっているイメージは国内向きではないとのこと。前作Big River の時も、自分がよし!と思ったショットがポスターには向いてないと言われたり、作り手の思いこみと、宣伝イメージとは全く異なるんだなぁと実感。来週、ポスター用に写真素材を再撮影します。
ポッドキャストでいつもNPR Fresh Air を聞いている。今日のゲストにWoody Allen。 自分は子供のころスポーツ万能で、学級班を仕切るリーダータイプだったのだが、殆どの人はBrooklyn Cony Island のジェットコースターの下に家があって(「アニーホール」)誰とも口の聞かずにコミックばっかりを読んでいた自閉症の子供だったと思っているそうだ。人生は唯でさえ苦しみが多く、憂鬱で、プレッシャーだらけなんだから、小さな笑い・喜び(Pleasure)を楽しんでいたい、そうやって自分の注意を散漫にさせる(”Distract myself”)のが鬱を防ぐのだそう。Allen らしいユーモアは現代日本に必要なんじゃないだろか?新作”Vicky Christine Barcelona (それでも恋するバルセロナ)”も、シネフィル必見というわけでも何でもないのに、やっぱり見に行くだろう。自分をDistract するために。
「谷中暮色」劇場公開決定! “Deep in the Valley” will hit theaters in Japan!
June 25, 2009 by Atsushi Funahashi拙作「谷中暮色」がこの秋、都内のミニシアター、ポレポレ東中野で上映されることが決定しました!公開初日は、10月の下旬〜11月の初旬の予定です。宣伝用チラシ、ポスターなどが仕上がりましたら、このサイトでもアップして行きたいと思います。
映画にご協力いただいた谷中の皆さん、ご支援誠にありがとうございました。
今後、劇場・宣伝会社とともに、パブを広めて参りますが、特に10月の谷中芸工展(谷根千エリア全てをアートギャラリーと見なし、町全体で展覧会、見本市などイベントを集中開催する2週間)は、作品が撮影された背景でもあり、期間中、宣伝活動に力をいれたいと思っております。
また、韓国ソウルで8月下旬に開催されるシネマ・デジタル・ソウル映画祭のコンペ部門に正式出品されることになりました。8月19日〜26日の間、私・舩橋もソウルへ行ってきます。
My third film “Deep in the Valley” will be theatrically released at Pole Pole Higashi-Nakano, an established art house theater near Shinjuku this fall. It’ll open at the end of October or the beginning of November. I’ll keep you posted when the new poster and flyer designs are complete.
I’d like to express my deepest thank you to the people who worked on the film in Yanaka. It was great experience to film in the neighborhood and we learned so much thru the interviews and met many people. we’d like to keep the momentum going and spread the film to all over Japan and the world.
I have another great news that DITV is officially invited to the competition section of Cinema Degital Seoul Film Festival in August. I, Atsushi, will be attending the festival bet/ Aug 19 and 26th.
NYインディーズの現在 What’s happening with NY Indies.
June 20, 2009 by Atsushi FunahashiNYで次作のNYローカルのプロデューサー候補とミーティングを重ねる中、フィルム・メーカーの友人たちとも再会。
Ramin Bahrani は、現在新作「Goodbye Solo」(ベネチア映画祭国際批評家連盟賞受賞)が全米公開中。現在、メール・インターネットを遮断して夏中新作の脚本を執筆中だそう。内容は口外できないが、参照体系の映画について意気投合した。Anthony Mann の西部劇”Naked Spur”, “Bent of the River”, “Man of West”, “T-men”(西部劇ではないが)等々。Mann が描いた、残酷で暗い過去に取り憑かれその恐怖に怯えながら少しでも善人として生きようとするカウボーイたちは、Eastwoodに少なからず影響を及ぼしたのではないか。そして、男たちに自分も制御できない自らの暴力性の発露、暴発に驚愕する瞬間が必ず訪れる。これも視覚的な突出が、物語の説明よりも常に先行するという点でMann的であると思う。
Ramin はOlivier Assayas対して辛辣だった。近作は全て「フランス」的フレーバーを存分に利用した企画で、同じ物語をイランや日本に移植してもなんら機能しない、つまり映画としての価値がない作品だ、とのこと。彼は「冷たい水」など初期作品を見ておらず、偏っている面はあるものの、彼の近作(「イルマ・ヴェップ」以降の作品)が刺激に満ちてはいるものの、どこか映画としての画面の充実とは異なる方向へ向かっていることは確かである。Raminの指摘はまさしくその点を突いているものだ。NOISE のKim Gordon の身体性(これはこれでスゴイ)と、物語の接点を狙っているのだろうが、どこかいつも大きく風呂敷を広げつつも、詰めが甘い印象が残る。”Clean”のマギー・チャンの最後のレコーディングは、明らかに下手。期待を込めて画面を注視するラストだけに、その裏切りは殆どショッキングであり、あれを良としたAssayasはどこかポイントがずれていると言わねばならない。
その後、ベルリンで会ったSo Yong Kim (”Treeless Mountain”)と Brad (”Exploding Girl”)夫婦の家へ。SO Yongは今イスタンブールの映画祭へ行っていると言うことで、Brad と彼らの娘Sky と歓談。”Exploding ~”は、この苦しいご時世なんとか配給されそうだと言うこと。
Brad, Ramin に紹介されたNY Times の記事、「Neo-Neo Realism (A.O. Scott, March 17, 2009)」。彼らはAmerican New Neo-Realism として、一つのニューウェーブと見なされているそうだ。それが本当にNew Wave なのかどうか?うーん。
Green NYC
June 9, 2009 by Atsushi Funahashi1年9ヶ月ぶりにNYに戻ってきて、いろいろな事が真新しく映る。 まず市長Michael Bloomberg が進めているNY緑化政策。街のあちこちに公園が増え、ベンチやパラソル付きテーブルを備えた休憩ゾーンがストリートの真ん中にあちこち設置されている。自転車専用レーンも敷かれ、バイカーにとり住みよくなっている。目に見える形で住環境を変えてゆく市長の手腕はダイナミックで、2期目にして未だ高支持率を維持しているのも頷ける。そもそも公園や緑の在り方が、東京とNYは決定的に違う。NYーCentral Parkにせよ、Bryant Parkにせよ、私の好きなProspect Park にせよ、青々とした巨木が広大な敷地に多数植えられ、芝生はふさふさしていて思わず寝っ転がりたくなる。公園維持のために巨額の予算が投じられている。代々木公園には芝生は一応あるが、寝っ転がろうものなら土まみれになってしまう。今年は花見にいったが、宴会しているあちらこちらに砂利収集用テントを用いた巨大ゴミ箱が設置され、異臭を放っていたのには興冷めだった。投じる予算が違うという背景には、せっかく公園に行くのであれば、思わず寝っ転がりたくなる芝生がないとダメ、小動物が我が物顔で生息していないと(人工だとはいえ)自然とはいえぬ、と言う西欧の公園の基本コンセプトがあるように思う。そんな公園が交通・文化・商業機関が集中するビル群の真ん中にあったりするNYCはやはり刺激的だ。
(写真左上から、East Village の週末。友人のMaya & her son Parker とProspect Park で。先ごろ導入されたBike Lane。暇をつぶしたBryant Parkにて。)
Drag Me to Hell, a new film by Sam Raimi
June 8, 2009 by Atsushi Funahashi99 min, 2009
Alison Lohman … Christine Brown
Justin Long … Clay Dalton
Lorna Raver … Mrs. Ganush
Dileep Rao … Rham Jas
傑作。Spiderman 三部作以前の、The Evil Dead, Darkman, The Quick and The Dead のサム・ライミがとうとう戻ってきた。半開きの窓のカーテンが揺れるだけで身の毛もよだつ妖気を演出してしまうライミには、ビッグバジェットは必要ない。むしろ、ローバジェットの制限の多い環境下で最も輝く。銀行でローン支払いの延長を断られた老婆が、銀行の女店員に呪いをかけるというのいかにも2009年的。身体が信じられない方向に収縮・拡張したり、手がズボズボと口の中に入ったりと、常軌を逸したエフェクトが最高。画面は本当に充実している。霊媒師の南アメリカ系女性の悪魔に立ち向かう固い決意が見える眼光、呪術を唱える声色など、嬉嬉として演出しているライミが見えた。いかにも善人らしい顔で、魔界の出来事を一切関知しない無神経な恋人やその家族のわかりやすい無関心ぶりは、低予算ホラーの精神といえる。きっとライミは、キム・ギヨンが生きていればきっと意気投合するに違いない!
An incredible masterpiece by Sam Raimi. After making the trilogy of Spiderman he came back to his roots of the low-budget horror films. Like “The Evil Dead”, “Darkman”, “The Quick and The Dead”, he creates the atmospheric scare just by waving curtains and subtle shaking sound of dishes. The protagonist is a banker woman who refuses to give an evil-looking old woman extension to her mortgage loan and got cursed by her. The plot line is very contemporary. The special effect is overly disturbing. The acting (and directing) of the psychic medium woman is intensely bizarre. All the sub-characters including the protagonist’s boyfriend are so conveniently indifferent to the horror events, which I think is the essence of B-horror spirit.
Back in NYC!
June 1, 2009 by Atsushi FunahashiFinally I came back to NYC after being in Japan for almost 2 years. First off I got together with Eric, my co-writer and DoP, then see Brian, my old friend from film school. We all join a roof top party hosted by Martin and Sarah. They are all my film school friends from SVA. It’s a sensational feeling to be in the city in summer and hanging out under the sun!
30日からNYCに帰還。10年住み慣れた場所ということで、敢えて帰還と言いたい。なんと言ってもNYの夏は素晴らしい。湿度のない、カラッとした日差しの元、フィルムスクール時代の友人、Martin, Brian, Eric, Vinz, Aaronと再会。学生時代と違うのは彼らももう、アパートを購入していて、子供持ちだったり。しばらく羽を伸ばさせていただきます!
「これが最後の…と呟くオルミを前に、我々は戸惑うばかりだ」
May 22, 2009 by Atsushi Funahashi
Elmanno Olmi “Centochiodi” 2008 94 min
世の中には齢100歳を通り越していかにも快活に毎年一本のペースで撮り続ける作家もいる一方、この作品をもって映画への出演を最後にしたいという元カウボーイのアメリカ人がいたり、また今回をもって最後のフィクション映画としたいと呟くイタリア人監督がいたりする。世界の方々で「これが最後の・・・」と呟くシネアストたちが、覚悟を決めてキャメラの前にまたは後ろに立つという状況が巻き起こっているというのは、どういうことなのだろうか。自らの作家活動を振り返り、その歩いてきた道程とこれから歩むべきさらなる一歩を見渡し、「次が最後の・・・」という洞察と覚悟に行き着く作家の思惑について、筆者の拙い想像力など遠く及ばないと思うのだが、それでも、この作家の言葉が試写のスクリーンに向かう我々の瞳を否が応にも緊張させると言わねばならない。
エルマンノ・オルミの新作であり、曰く「最後の劇映画作品」であるという「ポー川のひかり」は、その名も「キリストさん」と呼ばれる大学教授が、金は捨てないが名誉も職も捨てて、ポー川のほとりの古代の石造りの家に住み着き、近くの集落のコミュニティに溶け込んでゆくというアレゴリカルな現代劇である。おそらく先祖の時代からポー川流域をずっと「不法占拠」してきた住民たちは、年寄りばかりで仕事もなく、濁った瞳と無駄に太った身体をもてあましているという風だ。彼らの中に、一人の部外者であるハンサムな「キリストさん」が少しずつ溶け込み、ご都合主義極まりないのに、あくまでごく自然の振る舞いのように、年寄りたちが無言の協力体制を布き彼の家を修繕してゆく様は、宗教的な理想郷と言うよりも、西部劇そのものであるし、Fを頭文字とする大監督の名前を口にしたくもなる。しかし、ことは「最後の劇映画」であるというからには、やたらに他人と比較してみることは禁じるべきだろう。
画面は悉く、素晴らしい光をとらえている。DAY FOR NIGHTだか、昼だか分からないような川辺の時間は魅力的だし、甲板でダンスする人々を載せたフェリーが、川をなめらかに横滑りしてゆく様を岸から捉えたショットなどははっと息を呑んでしまう。集落の人々が終始躊躇いがちに、稟議のテーブルを囲んでいる様には異様な興奮を覚えた。特に「キリストさんは悪いことはしない」と呟く、巨体の老人の半開きの口の存在感は、画面から殆どはみ出しており、反則すれすれである。さらに、いったん警察に身柄を拘束された「キリストさん」が保釈され、集落に戻ってくるという噂が人々の間で囁かれ、夕刻、道の両側にろうそくの炎が並べ立てられ、皆が今か今かと期待を高めて待つときの、あの炎の道のショットには思わず涙を禁じ得ない。それはショットとショットの蓄積によって形作られる説話空間の映像的、即物的な期待が、見事に一点集中を見せるという充実の瞬間であり、ヒロインの女性(決して美人ではない彼女も変な魅力があり、おもしろい!)が涙する前に我々が涙せずにはいられないという、希有な体験でもあった。しかし、こんな脳軟化を誘うような至福感に浸っていても良いのだろうか、と思わずにはおれないある種の閉塞感がこの作品を覆っている。それは「これが最後の・・・」と呟く作家オルミの選択・限定の意志なのかも知れないし、映画が映画であろうとする時不可避に訪れる反=時代性なのかもしれない。
坂本龍一がどこかの取材で「スポーツ選手が観客に元気を与えたい、っていうのを聞いて、不遜じゃないの?って思うんです。」と言っていた。全く同感で、映画についても「元気をもらった」という、いかにもさもしい表現が最近市民権を得たように人口に膾炙している現象には本当に辟易させられるのだが、「キリストさん」が集落の人々に残した言葉「幸せとは、外部から与えられるものではない。みんなで作りあげるものなのだ」は、そう言った意味で今日的であると言える。
Ulmer’s “Detour”, “Girls in Chains”, “Bluebeard”
May 17, 2009 by Atsushi Funahashi法政大学で全く未見のUlmer 作品2本と、ずっと昔に見て全く忘却の彼方へと消えていた「Detour 恐怖の回り道」(1945)を固め打ち。ふらふらと亡霊のようにヒッチハイクを続ける男(Tom Neal)のイメージばかりが鮮烈に脳裏に残る”Detour”は、ターナー的な不確かな存在の浮遊が、作品としての魅力となっており、道中、共犯関係を結ぶヴェラ(Ann Savage)とは決して結ばれることはないだろうということは、このTom Neal の存在を見ていれば確かなこととして実感される。

“鎖につながれた女たち Girls in Chains” (1943)は、途中不覚にも、pass out. しかし、寝てしまっても要所は抑えることの出来るストレートな筋立て。アルドリッチの監獄ものの如く、荒くれどもの監獄の更正施設に着任した新人教官が主人公。違いは、全てが女性という、年代を考えればかなり先鋭的なテーマ取り。しかし、悲しいかな、ローバジェットなのだろう、芝居場が、全て長廻しの立ったままの会話劇が延々と続くところもあり、画面がみるみるうちに生気を失ってしまう。といっても、独房に一人一人暴力少女たちを放り込む場面などは、アクションの執拗な反復はハマっていたが。


“青ひげ Bluebeard” (1944)は傑作。一日中Ulmerを見続けて良かった。Lucille (Jean Parker)のクローズアップの画面設計、ロングでは顔を見せずに置いてポンと寄るタイミングは大いに勉強になる。照明は、口元にふわっとスポットが降り、それ以外は(ベールに隠れているという意味づけなのだろう)暗い影で隠れている。この人間の顔の一部に光が当たり、あとは影が落ちているという視野角は程良く一貫して保たれており、そのふわっとした光の溜まりに人が入ってきたり、退いたりすることが、ドラマの運動とシンクロするという驚くべき設計=演出のセンスで、これぞ映画という一品。決して忘れてはならぬのは、Bluebeardこと殺し屋役のJohn Carradine。Puppeteer人形遣いという職業の持つ、職人肌のアーティストという凡庸なイメージにけっして収まることのない、力の抜けた謎の存在感と低いヴォイスは強く我々を惹きつける。頭の上にだいぶスペースを空けた彼のクローズアップ(イレイザーヘッドのポスターのよう、といえば分かるだろうか)は、ただごとではない。

















